シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

農学校教師を辞める(1)

 1926年3月、宮沢さんは、花巻農学校を依願退職し、教師を辞めます。経済的にも、人間関係的にも、そして精神的にも、あれほど充実していた農学校の教師生活をなぜ退かなければならなかったのでしょうか。その問いには多くの人が関心を寄せ、その謎を探究してきました。

 当時弘前の歩兵連隊にいた弟の宮沢清六さんへの(1925年12月1日づけ)手紙の中で、宮沢さん自身そのことについての経緯についてごく簡単に触れています。その文言とは、

 「お手紙見ました。すぐご返事するのでしたがこの頃畠山校長が転任して新しい校長が来たりわたくしも義理でやめなければならなくなったりいろいろごたごたがあったものですからつい遅くなったのです」というものでした。

 花巻農学校教師を辞めることになる諸事情については、これまでたびたび参照してきた岡田純也さんの考察を今回も参考にさせていただこうと思います。まず、岡田さんは次のように問いかけます。

 「農学校の教師生活を後年回顧して、最も愉快な明るいものだったと語った賢治が、なぜ退職を決意したのであろうか。現実社会での葛藤の中に身を置こうと決意した賢治であるが、それがすぐに退職に結びついたとは思われない」のですと。

 この岡田さんの宮沢さんの退職問題に関する問いかけには重要な指摘があるように思えます。それは、宮沢さんの退職に関しては、まず宮沢さん自身の「現実社会での葛藤に身を置こうと決意」したことを指摘しているからです。その上で、岡田さんは、その決意を現実の退職という形で実現することになった諸事情の考察を行っています。そこで、次に、岡田さんが取り上げているそれらの諸事情とはどのようなものかについて参照して行きたいと思います。

 岡田さんは、「まず『春と修羅』に続く『注文の多い料理店』出版の失敗があ」ったのではないかと推測しています。その失敗のため、岡田さんによれば「Misanthropy(ミザンスロピー)が氷のやうにわたくし(宮沢さん)を襲つてゐます」[(宮沢さん)は引用者によるものです。]、すなわち人間嫌いの感情が宮沢さんの心を襲うような状態になったというのです。

 「また大正十三年に同僚の教師奥寺五郎が死んだことも、その理由の一つに数えられる」といいます。宮沢さんは、同僚の奥寺さんの闘病中、「休職を続けた奥寺の経済生活を自身の給料の三割くらい毎月出して援助し」ようとしていたのです。

 しかし、「人からほどこしを受けることを望まなかった奥寺に、善行をするという自己満足のために助けるならやめてくれとまで言われ」、「賢治の熱誠も空しく死んで」しまったのです。人には自尊心があり、人を援助するということがときには人の心を傷つけることがあるのだなと、あらためて感じます。

 「また大正十三年夏に、土地の有志が、賢治が一役買った温泉発掘のボーリングをはじめたが失敗に終わる」という出来事もあったといいます。

 さらに、岡田さんは、「異途の出発」(1925年1月5日)という作品を取り上げ、「この頃賢治は進むべき道、生活の転換を考え始めてもいるよう」だったと推察しています。

 なぜ宮沢さんが「生活の転換を考え始め」るようになっていたのかについては、岡田さんは、「賢治は、農学校時代生徒たちに『学校を出たら百姓をやれ』と常に語っていた。また現実を直視する賢治の目には、郷土岩手の天災に苦しめられる貧しく非科学的な農民の姿が、はっきりと見えはじめていた」からではないかと見ていました。

 以上のようなもろもろの出来事が宮沢さんが農学校教師を辞め、別の道を歩むようになることに関わっていたというのですが、最終的には、当時の校長先生であった畠山さんの転任が退職の引き金となったといいます。

 「賢治を農学校に誘った畠山校長には恩義を感じていたであろうから、その退陣が最終的に賢治に退職を決意させたとは言えそう」なのでした。

 もともと仏国土建設のための何らかの活動に踏み出したいと考えていたのですから、なぜ宮沢さんが農学校教師を辞することになったのか、岡田さんが詳細に検討して下さっていることで尽きているのではないかと思います。ただなぜ1925年初頭ごろ、宮沢さんは自分の「進むべき道、生活の転換を考え始め」るようになっていったのかということについて、もう少し考察してみたい気がします。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン