シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(9)

 終活の一環として宮沢さんの人生をフォローしていくことで、あらためて宮沢さんのすばらしさの一端にふれることができます。その中で、とくに、宮沢さんのすばらしさは、ただ単に自分の命を削ってまで地域の農民たちの窮状を救おうとしたという人間的な立派さだけではなく、個人的な感想になるかもしれませんが、なによりもどんな困難や挫折に直面しても何としても生き抜こうとしたところにあると感じます。さらに、苦しむ衆生を救うという初期の立願を貫き通した人生であったところにも宮沢さんのすばらしさを実感しています。しかも、それは、自分が主人公になろうとする人生ではなく、農民たち自身が自分たちの力でいかに幸せになるかを探究しつづけた人生でもあったと思います。

 ここでは、宮沢さんが可能な限り生き抜こうとしたその原動力となった仏教の教えとは何だったのかについて考えてみたいと思います。宮沢さんは、1927年8月20日付の詩の作品群に表現されている極楽浄土建設の立願への試練以降に限っても、幾度かの精神的、身体的危機に直面しています。それらは、社会との接点を失ってしまうだけでなく、ときには死にたいとさえ思うような危機でもあったようです。しかし、そのたびに、宮沢さんは、それを乗り越えていっただけでなく、社会状況と己の経験の積み重ねを基礎に、新たな目標とそれを実現するための自己変革を遂げ、極楽浄土建設の立願を達成しつづけようとしています。それは、本当にすごいことだと感じます。そこで、以下、簡単にその軌跡を、宮沢さんの全集に収録されている書簡を手がかりにフォローしておきたいと思います。

 まず1928年「春頃」と推定されている高橋慶吾さんへの封書に次のような一文があります。「もうわたくしもすっかり世間を狭くしてしまいました。弱いこと不具なことはお互ひです」と。同年、9月23日付、沢里武治さん宛の封書には、「六月中東京に出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまヽで、七月畑へでたり村を歩いたり」したたために、「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦し」んだとの近況が記されています。同年12月と推定されている「あて先不明」の「下書」の手紙には、「何分神経症の突発的な病状でございましたためこの八月までもこの冬は越せないものと覚悟いた」したという記述が残っています。1928年のこれらの手紙の文章を読んでいると、宮沢さんは、このころ、とくに精神的に大分病み、衰弱していたことが分かるのです。

 さらに、そうした精神的に弱った状況は、1929年に入ってもしばらくつづいたのではないかと感じます。全集の書簡集にも9月までの書簡がない状態になっています。この年、最初に掲載されている書簡は、9月18日と推定されている、斎藤貞一さんあての「葉書」です。そのには「近日漸くに病勢怠り多少の仕事も致し居り候」とあり、徐々にではありますが回復傾向にあることが示されています。そして、12月と推定されている「あて先不明」の手紙の「下書」には、「私ことお陰さまでまづは全快の形でございますがまだ寒さに弱く室外へは出兼ねるやうな次第でございます」と、心身ともに快方に向かっていることが記されているのです。そして、その時期は、東北砕石工場の創業者である鈴木東蔵さんと出会い、新たな活動舞台が生まれようとしていた時期と重なっていたのです。

 1930年に入ると、それまでの精神的・身体的病状もすっかり回復し、意欲的に社会的活動をしようとする意欲も示すようになっていきます。同年1月1日の冨手一さんへの「謹賀新年」の挨拶の「葉書」には、「お陰で療りました。お序でお目にかヽりたいですが」としたためられています。2月9日、沢里武治さんあての「葉書」では、「わたくしすっかり療って仕事してゐます。命を一つ拾ったやうな訳です」と。すでに社会的活動を再開している近況を知らせています。同年、3月4日付の森佐一さんあての「封書」では、精神的にもすっかり回復した様子が記されています。すなわち、その「封書」には、「ご来訪以来わたくしも気分大へん明るくなり昨日も今日も半日づつ起きて今度こそはとわざと風に吹かれて見たりして居ります」との、自分の回復ぶりを知らせる記述があるのです。

 同年、3月30日付の菊池信一さんあての「封書」には、それまでの自分の活動の在り方を見つめ直し、新たな挑戦に向かをうとする心情が綴られています。「私の幸福を祈って下すってありがたう、が、人はまわりへの義理さへきちんと立つなら一番幸福です。私は今まで少し行き過ぎてゐたと思ひます」とです。「少し行き過ぎてゐた」とは、きちんとした成果もだせないまま、自分が浄土建設のためよかれと思うことを、あまりにも自分の思いを優先し、主導してそのための活動を進めてきてしまったということへの反省ではないかと推測します。

 しかし、1931年には、東北砕石工場で働くという新たな活動へ向かうことへの希望が生まれていったのです。同年、1月15日の沢里武治さんあての「封書」に、「実は私は釜石行きはやめて三月から東磐井郡松川の東北砕石工場の仕事をすることになりました」との近況を知らせているのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン