シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

灰色の労働とそれを燃やす芸術活動

 ところで宮沢さんは働くということをどのように感じていたのでしょうか。推測では非常に否定的に捉えていたのではないかと考えます。しかも、資本主義社会という社会システムの下では、経営者として働いても、経営者の下で労働者として働いたとしてでもです。すなわち、宮沢さんにとっては、働くということは、いやしく、労苦に満ちた、そしてお金(利益)を得るためには他人からの搾取をも厭わないという、薄汚れた暗いイメージがつきまとう生活活動だったように思えます。

 しかし、同時に、何の仕事もせずに親がかりで自分はぶらぶら道楽に耽るだけの生活にも耐えることができない感性のもちぬしでした。しかも、宮沢さんは生きていくための仕事や労働にも、美と聖性を求めていたのではないかと推測します。なぜならば、宮沢さんは絶えず自分が従事していることについて上等・下等という価値判断を下していたように感じるからです。

 そしてそのことは、宮沢さんもまた、資本主義社会で生きている人で、その競争主義的な文化に色濃く染まってしまっていることを示しているように感じるのです。社会学的に見ると、宮沢さんもやはり競争主義的な文化から自由ではないという意味で神や超人的存在なのではなく、人の子・社会の子だったのだなとほっとする気持ちになります。それまでは余りにも聖人すぎて近づき難いイメージがありました。

 1918年9月の保阪嘉内さん宛の手紙の中に宮沢さんの次のような苦悩が綴られています。生活が厳しい世の中で、「暖かく腹が充ちてゐては私などはよいことを考へません しかも今は父のおかで暖く不足なくてゐますから実にづるいことばかり考へてゐます」。

 「私の世界に黒い河が速にながれ、沢山の死人と青い生きた人とがながれ下って行きまする。青人は長い手を出して烈しくもがきますがながれて行きます。青人は長い長い手をのばし前に流れる人の足をつかみました。また髪の毛をつかみその人を溺らして自分は前に進みました。あるものは怒りに身をむしり早やそのなかばを食ひました。溺れるものの怒りは黒い鉄の瓦斯となりその横を泳ぎ行くものをつヽみます。流れる人が私かどうかはまだよくわかりませんがとにかくそのとほりに感じます」とです。

 そして、1921年には、国柱会の会員となっていた宮沢さんは、保阪さんにも国柱会の会員になることを説得するための手紙を書き、その中で「一緒に一緒に……。憐れな衆生を救はうではありませんか」と呼びかけるのです。

 この保阪さんへの呼びかけを読むと、この時点では確かに宮沢さんは、苦しんでいる人たちを高みから見ていたように感じます。「憐れな衆生」という表現にそのことを感じてしまいます。

 しかし、その後宮沢さんは、それらの憐れな衆生の人たちの労働の価値を発見していくことになったのではないでしょうか。この時点では、労働とはただ生きていくためだけのものと考えていたように思います。そして、そうした労働はとっても人間的と呼べるものではないとも考えていたのではないでしょうか。宮沢さんは、そうした苦しいだけの労働を芸術化することが自分の使命であると思っていたように感じます。灰色の労働を芸術活動によって燃やすとはそのようなことだったと言えると思います。

 ではそうした労働観の見直しはどのように生まれていったのでしょうか。それは冷害や干ばつなどの自然災害との闘いや東北砕石工場でのセールスマンとして働いた経験を通してではないかと推測します。

 前者における体験では、きょう一日生きのびればそれだけで幸せだというような極限的な飢餓の状況を目の当たりにしています。しかも、そのことに何もできない自分がいる無力感や敗北感を感じざるをえなくなってしまいました。現実には、厳しい自然災害の下では、宮沢さんは、「憐れな衆生」を救うことができなかったのです。

 後者の体験においては、自分がセールスの成果を上げることを大変喜んでくれる工場労働者たちとの交流がありました。しかも、それは、労働者自身とだけの交流ではなく、労働者家族の人たちとの交流も経験するというものでした。

 さらに、はじめは学問的・専門的な知識・技術を習得した高みから、潜在的には見下げていた百姓の人たちが、そうした自然災害に直面しながらも自分たちが生きることのできる生産を担ってきたことにたいして、厳しい自然との闘いの経験は、彼ら、彼女らの生産する力を見直すこと契機ともなったのではないかと感じます。

 また、東北砕石工場におけるそこで働く人たちとの交流は、労働で得た賃金は、労働者の家族の人たちがともに喜び、つつましいとはいえ温かな生活をお互い思い合って送る大切な資源となっていることを感じ取ったのではないかと思います。

 これらの思いは、1932年6月の手紙の下書き(宛先不明)の中の次のような一文に吐露されているのではないでしょうか。宮沢さんは言います。「からだが丈夫になって親どもの云ふ通りも一度何でも働けるなら、下らない詩も世間への見栄も、何もかもみんな捨てゝもいゝと存じ居ります」というようにです。

 すなわち、宮沢さんは「本当の百姓」としての農業労働や東北砕石工場でのセールスマンとしての労働経験という自分の実体験(宮沢さんのことばによれば「本気に観察した世界」の体験)をしたことで労働のもつ肯定的な価値を発見したのではないかと考えます。また百姓たちや東北砕石工場の労働者の人たち一人ひとりの人たちのもっている生産のための技術のすばらしさに気づいたのではないかと考えます。

 この視点で宮沢さんの「虔十公園」という作品を読み直して見ると新たな読み方ができるのではないかと感じます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン