シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

肥料セールスマンにとって辛く険しい社会的および市場的環境

 宮沢さんが東北砕石工場のセールスマンとして販路開拓の旅にでたときの客観的環境は非常に厳しいものがあったようです。そのことに関しては、宮沢さん自身ある程度認識はしていたようです。

 東北砕石工場の鈴木さんへの販路開拓に関する献策の中で、「今後農業の進歩に伴(つ)れてだんだん競争者もできて来ることはご覚悟がいります」と述べているのです。しかし、そのときは、もちまえの自分の思いに熱中しているあまり、その競争の中でも勝ち抜ける見通しをもっていたようなのです。その楽観的な背景には、高等農林高校時代の人脈を頼りにすることができることへの期待があったからではないかと考えます。

 しかし、現実はその期待をはるかにしのぐ厳しさがあったのです。長く農林省で仕事をし、日本農業経営をめぐる歴史的状況についても専門的な知識を有している和田さんによれば、「賢治は最悪の条件のなかで肥料商をはじめた。しかも間接肥料といわれ作物に施用しなくても、といわれる肥料用石灰の花巻販売店の店員、販売担当店員として」働き始めることになったのです。

 では、「最悪の条件」とはどのようなものだったのでしょうか。まず、当時の肥料をめぐる政治的・経済的状況が最悪であった。すなわち、当時肥料問題は、「政治、経済、国際関係などだきこんでいたし、これをめぐって農政と商工政策の間に食い違いがあり、肥料業界と農業団体との間に軋轢が生じていた」のです。

 さらに、当時は、「冷害、凶作、経済恐慌で農業生産や農家の意気が消沈していたとき」だったのです。そのため、なによりも多くの「農家に肥料代支出の余裕はな」い状況でした。しかも、宮沢さんがセールスしようとしていた「石灰肥料は土壌改良剤としての効用は期待できても、作物の生育に直接の作用はすくない」ものだったのです。

 さらにその上、東北砕石工場という「会社は確たる製造、販売の実績がある企業とはいえないし、すでに先発の企業が市場をおさえている。社長の鈴木東蔵も他の職業からの新規参入の人物」だったのです。

 和田さんによれば、さらにさらにその上に、当時肥料業界は生産過剰状態にあり、さまざまな不当な廉売や粗悪品の販売などが横行しており、売れれば売れるほど、経営的にはむしろ会社が追い込まれるような状況にさえあったのです。

 そうした状況にもかかわらず、先に言及していたように、宮沢さんは高等農林学校および国民高等学校時代の人脈を頼ることで自分のセールス活動にある程度の自信をもっていたのではないかと思います。事実、宮沢さんはまさしくそれらの人脈を頼ってセールス活動を行っていったのです。

 確かにその結果、宮沢さんのセールス活動によって東北砕石工場は、小さくない販売実績をあげたと言われています。しかし、一方では、現実には、人脈頼りのその活動は、反って宮沢さんの肉体的、精神的健康を害する方向に追い込んでいくことにもなっていったものと思われるのです。

 和田さんの前掲書は、その軌跡を詳細にフォローして描き出しています。関心のある方はぜひ和田さんの著書を読んでいただければと思います。ここでは国民高等学校時代のときその運営主事であった高野一司さんとの関係についての和田さんの描写を参照しておきたいと思います。

 そのとき宮沢さんはその国民高等学校において「農民芸術概論」の講義を担当していました。そして当時その国民高等学校をめぐっては内務省と文部省の間で確執と対立があったというのです。その点で言うと、高野さんは内務省の管轄に、そして宮沢さんは文部省の管轄となっていたのです。

 さらに、宮沢さんは、高野さんに対し、「偽善的ナル主事、知事ノ前デハハダシ」という公憤を抱いていたのではないかと和田さんは指摘しています。そして、宮沢さんが東北砕石工場のセールスをしていたとき、高野さんは宮城県の広淵沼干拓事業所の所長を勤めていました。その高野さんのところに宮沢さんはセールスに行き、購入を断られています。

 すなわち、「本年はちょっと難しいと断られた」のです。そのことを、和田さんは、高野さんの意地悪でも、「にべのない対応」でも、さらに「非情と言」えるものでもなかったと評価しています。むしろ当時の広淵沼干拓事業をめぐる状況から断らざるをえなかったのだそうです。

 和田さんは言います。まず「その頃の入植者の経営と生活の実情から(肥料購入は)困難」[( )内は引用者による。]だったのです。また広淵沼は、「干拓後の風化によって堆積された植物性養分が豊富で泥土を耕しやがて水稲をつくる豊沃な耕土とな」っており、石灰の必要もなかったのです。

 和田さんは問います。「それらのことについて賢治はどの程度理解していたのだろうか」とです。さらに別の個所においてではあるのですが、宮沢さんにより厳しい問いかけを行っています。

 肥料商となった「賢治は農家小作人の理解者としてであるのか、農村、農家からの収奪する側にあるのか、ここに宮沢賢治の今日をみきわめる分岐点があるといえる」というようにです。

 和田さんによれば、宮沢さんはそうした問いにどう答えたらよいかについて、うすうす気づいていたのではないかと見ているようです。だからこそ、そのことが宮沢さんを精神的に追い込む要因となっていたのではないかとも推測しています。

 同じく和田さんによれば、石灰肥料のセールスに来た宮沢さんと会った高野さんも感じ、宮沢さんの「境遇を察知した」のではないかと言います。すなわち、高野さんは宮沢さんの訪問を受け、対面したとき、「賢治はこの仕事に適していないと判断し」たのです。

 そして、「それは石灰肥料の販売は賢治の本来の仕事ではなく、本来の仕事にもどるべきということである。それは高野が山形県自治講習所の加藤所長のもとで、萩野村(新庄市昭和)の開墾入植そして大高根村(村山市)の開墾で接した青年たちの究極から学びとったものである。賢治と久しぶりの対面、会話でまず感じたことは身体の疲労の激しさであり、精神の衰退ではなかったか。それは孤立と逃避のにおいではなかったか」という想いからのものだったと言うのです。

 ここまで参照してきた和田さんの言説が果たして正しいものなのかどうか、残念ながら自分は判断することができません。ただそうした評価を受けるような活動に宮沢さんはなぜ身も心も捧げるようにしてのめり込んで行ったのだろうかという疑問が頭をよぎるだけです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン