シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんの詩の作品(3)―「火祭」

 「火祭」という作品は、今回参照している『詩集』の編者である山本太郎さんの解説によれば、宮沢さんが心血を注いだ羅須地人協会の活動が空転しはじめた時期の作品だそうです。宮沢さんはその活動を通して、(貧しい)農民の人たちのために、その人たちと協力して、自分が信じる新しい農民としての生き方を創造しようとしました。しかし、その活動は、肝心の農民の人たちから宮沢さんが思っていたようには理解されなかったのです。そのことに苦しんでいる心情をそのまま表現した作品が「火祭」ではないかと思います。その書き出しは、次のようなものです。

 「火祭りで/今日は一日/部落そろってあそぶのに/お前ばかりは/町へ肥料の相談所などこしらえて/今日もみんなが来るからと/外套などを着てでかけるのは/いい人ぶりといふものだ」

 これも山本さんの解説ですが、上記の文章には、「『お前ばかり』がいい人ぶり(いい気)になって、という賢治の自嘲」が表現されているのです。かき出しで、自分の自嘲の心情を素直に吐露した後、なぜ農民の人たちは自分がやろうとしていることを評価してくれないのか、その問への自分なりの考えを著しています。

 「くらしが少しぐらゐらくになるとか/そこらが少しぐらゐきれいになるとかよりは/いまのまんまで/誰ももう手も足も出ず/おれよりもきたなく/われよりもくるしいのなら/そっちの方がずっといいと/何べんそれをきいたらう」

 再度ここの文章に関わる山本さんの解説を参照したいと思います。山本さんによれば、ここの文章は農民たちの「心身にしみついて退嬰的な考え」を表現しています。その退嬰的な考えとは、「他人の不幸、貧しさをみて、自分の現状をなぐさめる」という農民たちの「心の貧しさ」なのです。宮沢さんは何とかその「心の貧しさ」と闘おうととしたのですが、結局は何ともならなかったと山本さんは解説します。

 「少しぐらゐらくなる」という「ぐらいのことでは、農民の心にすみついてしまっている」「心の貧しさ」は変えることができないのだ」と山本さんは断じます。それは、宮沢さんのこの作品の中の表現を参照するならば、「ひば垣や風の暗黙のあひだ/主義とも云はず思想とも云はず/ただ行はれる巨きなもの」です。

 「誰かがやけに/やれやれとやれと叫べば/さびしい声はたった一つ/銀いろをしたそらに消える」

 「火祭りの『やれやれやれ』というカケ声も妙に空々しく空にすいこまれてしまう」ように聞こえるほど、このときの宮沢さんの心は、「陰鬱でさびし」さに溢れていたというのです。

 この宮沢さんの「火祭」という作品を山本さんの解説を参照しながら読んでいると、どうしても現在の地域社会の現状を思い浮かべてしまいます。なぜならば、旅をしていると、多くの地域で、山本さんが表現している「陰鬱でさびしい」風景を目にするからです。今の日本社会は、多くの地域ですっかり元気をなくしてしまっていると感じざるをえない風景が溢れているのではないかと感じます。

 地域づくり論の中では、そうした風景は「心の過疎」問題と言われてきたものです。「心の過疎」とは、それまで何をやっても、どうしても自分の住んでいる地域の衰退を止めることができず、すっかり諦めの気持ちに染まってしまっている状態のことを言います。たまたま読んでいた曽根英二さんの『限界集落 吾の村なれば』日本経済新聞社出版、2010年には、岡山県のある山村における「心の過疎」の問題が紹介されていました。

 曽根さんは、岡山県の「中山間地域に行くと、おじいさんがワシの地域には何もないと自信をもっておっしゃる。都会の人が行って『すごいですね』と言っても、地域の人は『だめなんだ』とおっしゃる。だったら(自分の地域を)自己否定していることになる」〔( )内は引用者によるものです。〕」のではないかと問題を投げかけているのです。

 宮沢さんも、宮沢さんが生きていた時代に、現在の衰退地域における「心の過疎」問題とおなじような農民の人たちの「心の過疎」という壁にぶつかっていたのではないかと感じます。残念なことなのですが、宮沢さんはそうした心の壁にぶつかり、弾き飛ばされてしまったようです。もし、そうした壁を乗り越え、地域の人たちを元気づけ、前向きな気持ちにさせ、何かもう一度チャレンジしようとする勇気を再生させることができる人がいたら、その人こそ、社会づくりの天才なのではないかと思わずにはいられません。

 和田さんによれば、宮沢さんが羅須地人協会の活動を開始し、その後東北砕石工場の販売員としての活動をしていった時期は、「最悪」の時期だったのです。その一つの要因が、「冷害、凶作、経済恐慌で農業生産や農家の意気が消沈していたとき」だったということでした。残念なことですが、宮沢さんはその状況を突破することができませんでした。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン