シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんの詩の作品(2)―「(もう二三べん)」

 岩手という地に仏国土建設を夢見る宮沢さんの心を暗く、屈折したものにしてしまうものとは何か、次に、「(もう二三べん)」という作品を見てみることにしたいと思います。

 「もう二三べん/おれは甲助(かふすけ)をにらみつけなければならん/山の雪から風のびしびし吹くなかに/部落総出の布令を出し/杉だの栗だのごちゃまぜに伐(き)って/水路のヘリの楊(やなぎ)に二本/林のかげの崖べり添ひに三本/立てなくてもいい電柱を立て/点(つ)けなくてもいいあかりをつけて/そしてこんどは電気工夫の慰労をかね/落成式をやるといふ」

 「林のなかで呑(の)むといふ/幹部ばかりで呑むといふ/おれも幹部のうちだといふ/なにを!おれはきさまらのやうな/一日一ぱいかたまってのろのろ歩いて/この穴はまだ浅いのこの柱はまだまがってゐるの/さも大切な役目をしてゐるふりをして/骨を折るのをごまかすやうな/そんな仲間でないんだぞ」

 宮沢さんは、村の幹部というものに非常にいらだっています。しかも、自分がその仲間だと思われていることにも我慢できずにいます。自分たちだけで慰労しようとする幹部たちは、いかに一般農民と心がかけ離れてしまっていることにいらだっているのでしょう。しかもその感性は、ひょっとしたら自分自身の本性でもあるのではないか、その予感にいらだっています。

 「甲助はさっきから/しきりにおれの機嫌(きげん)をとる/にらみつければわざとその眼をしょぼしょぼさせる/そのまた鼻がどういふわけか黒いのだ/殊(こと)によったらおれのかういふ憤懣(ふんまん)は/根底にある労働に対する嫌悪と/村へ来てからからだの工合(ぐあひ)の悪いこと/それをどこへも帰するところがないために/……/みな取り纏(まと)めてなすりつける/過飽和である水蒸気が/小さな塵(ちり)を足場にして/雨ともなるの類(たぐい)かもしれん」

 この文章にも、病弱な体のため思う存分労働することができないことにコンプレックスを感じている宮沢さんの心情が描かれているように感じます。

 「六人も来た工夫のうちで/ただ一人だけ人質のやう/青い煙にあたってゐる/ほかの工夫や監督は/知らないふりして帰してしまひ/うろうろしてゐて遅れたのを/工夫慰労の名義の手前/標本的に生(い)け捕(ど)って/甲助が火を/しきりに燃してねぎらへば/……/きゅうくつさうに座ってゐる」

 宮沢さんはそうした慰労会にどのように臨もうとしていたのでしょうか。この詩の最後はその姿勢を示す表現で締めくくられています。

 「風が西から吹いて吹いて/杉の木はゆれ樺(かば)の赤葉はばらばら落ちる/おれもとにかくそっちへ行かう/とは云え酒も豆腐(とうふ)も受けず/ただもうたき火に手をかざして/目力をつくして甲助をにらみ/了(をは)てただちに去るのである」

 何と宮沢さんは意固地なのでしょうか。しかし、それほど嫌な慰労会を表立って批判することもなく、ただひたすら耐えるように出席し、そのすべての不満を、甲助さんを睨みつけることによって晴らさなければならないところに宮沢さんの、自家がその地域の再有力者の家であり、自分はその家によって支えられて生きているからだったのでしょうか。自分の言動で家にだけは迷惑をかけることはできないと心底かんじていたように思います。

 ところで、この詩はどのようなことを意味するものなのでしょうか。ここで参照した詩集の編者である山本太郎さんはこの詩を次のように解説しています。

 「賢治は、何かといえば役人風をふかし、『さも大切な役目をしてゐるふりをして/骨を折るのをごまかすやうな』連中を当然きらっていた」のです。また、「そんな連中のために使役にかりだされ、うろうろと働かされている農民(ここでは甲助)に対しても怒りをもやしていた」のです。

 宮沢さんの、宮沢さんが生きていた時代の村の幹部と一般農民との関係に対する目には非常に厳しいものがあったということなのでしょう。しかも、宮沢さん自身、客観的には宮沢さんが嫌う「連中」の一員となっていることにそこはかとない憤りを感じていたのではないかと感じられるのです。とくに、農民の人たちから自分がそう思われているに違いないと感じ、そのことに我慢ができないでいたのではないかと感じます。

 おれはやつらとは違う存在なのだと。叫びたかったのではないかと感じます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン