シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

羅須地人協会活動の挫折と「ポラーノの広場」(1)

 中野さんによれば、宮沢さんの「ポラーノの広場」という作品は、彼の羅須地人協会活動の挫折感の影響が色濃く表れており、彼の夢の敗北の文学であるということでした。しかし、本当にそのような理解だけでいいのでしょうか。そのことを考えてみたいと思います。

 はじめに羅須地人協会における活動や不作・飢饉をももたらす自然との闘いにおける挫折によって宮沢さんが自分のそれまでの活動をどのように反省していったのかについて、再度確認しなければならないように思います。

 その第一の反省は、(外からみると決してそうと言うことができないように思えるのですが)自分があまりにも傲慢であったということでした。そのため宮沢さんは、仏国土建設における自分の役割について、決して自分が、自分がと前面にしゃしゃりでないということを誓います。

 すなわち、自分を決して勘定に入れず、人々の生活を見守り、何かと(精神的・感情的に)支えることに徹しようとしたのではないかと思うのです。それは、自分は法華経に出てくる不軽菩薩に徹するという誓いでもあったのではないでしょうか。

 同時に、「ポラーノの広場」とはそもそもどのような作品であったと考えたらよいのでしょうか。中野さんは、それは、理想の農村社会の建設を描いた作品であると考えているようです。だからこそ、上記のような批評となるのかもしれません。

 ここでは、「ポラーノの広場」は、それ以前の宮沢さんの作品で言えば、「農民芸術概論要綱」の冒頭部分の世界を宮沢さんが生きていた時代に再生しようとする物語だったのではないかと仮定してみたいと思います。

 「農民芸術概論要綱」の冒頭部分は次のような宣言調の文章が綴られています。すなわち、「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい/もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい/われわれの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった」というようにです。

 ここの文章の中で、宮沢さんは、「われわれの古い師父たち」は、「明るく生き生きと生活」していたと見ていました。では、明るく生き生きと生活している姿とはどのようなものだったのでしょうか。それは、宮沢さんによれば、「ポラーノの広場」で人々が交流している風景ではないかと思われます。

 それは、「ポラーノの広場」では次のように描写されています。

 「うつくしい夏のすらには銀河がいまわたくしどもの来た方からだんだんそっちへまわりかけて南のまっくろな地平線の上のあたりでぼんやり白く爆発したやうになってゐました。つめくさのかほりやら何かさまざまな果物のかほり、みんなの笑い声、そのうちたうたうみんなは組になって踊りだしました。七八人のやうでありましたがたしかにもうほんもののオーケストラが愉快そうなワルツをやりはじめました。一まはり踊りがすむとみんなはばらばらになってコップをとりました。そしてわあわあ叫びながら呑みほしてゐます」(『【新】校本 宮澤賢治全集 第十一巻』)。

 そうした光景を、この作品の主人公であり、語り部であるレオーノキューストさんは、「わたくしはこれこそはもうほんもののポラーノの広場だと思ってしま」ったのです。しかし、それは、この作品のもう一人の主人公で、後に自分たちの「ポラーノの広場」を作り出すことになるファゼーロさんが「あいつは悪いやつだぜ」と言う、県議であるデステゥパーゴさんの選挙目当ての宴会だったのです。

 こうした体験をしたことで、ファゼーロさんと彼の仲間たちは、自分たちの手で自分たちが考える「ポラーノの広場」を創る決心をすることになるのです。宮沢さんはその歴史的瞬間を次のように描写しています。

 「さうだぼくらはみんなで一生けん命ポラーノの広場をさがしたんだ。けれどもやっとのことでそれをさがすとそれは選挙につかふ酒盛りだった。〔〕けれどもむかしからのほんたうのポラーノの広場はまだどこかにあるやうな気がしてぼくは仕方がない。」

 「だからぼくらはぼくらの手でこれからそれを拵えてやうでないか。」「さうだあんな卑怯な、みっともないわざとじぶんをごまかすやうなそんなポラーノの広場でなく、そこへ夜行って歌へば、またそこで風を吸へばもう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢いがよくて面白いやうなさういふポラーノの広場をぼくらみんなでこさえやう。」「ぼくはきっとできるとおもふ。なぜならぼくらがそれをいまかんがえてゐるのだから。」というようにです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン