シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(4)

 宮沢さんに関心をもったことでまだ数は極めて少ないのですが、仏教関係の文献を読んできた限りで言えば、仏教がめざしている「抜苦」における「苦」の捉え方に宮沢さんの仏教に向き合うユニークさがあるように感じます。

 例えば、「苦」の原因を、「仏教の思想でいう真理」=「因縁の道理」を知っているかどうかで定義づけすることのできる、賢者・愚者論によって論じることがあるようです。『仏教を読む➅迷いを超える 発句経』の著者である松原泰三さんは賢者・愚者と「苦」の関係性を次のように説いています。

 仏教では、「因縁の道理」を知らない人を「おろか者」と呼びます。また、「愚痴(愚痴)の人」とも呼びます。そして、この「おろか者」にあっては、自分の「尊い人生を憎しみと怨(うら)みと悲しみ」の日々をおくらなければならないのですと。

 それに対し、「因縁の道理」を知っている人を「心ある人」・「智者」と呼びます。そして、「智者」は、すべての「苦」から自由になり、心の平穏をえるだけでなく、「自分を本当に愛する」ことができるようになるのですと。

 この「愚者」・「智者」論によって「苦」からの自由を説くのは、仏教の教えをよく理解している者には大きな誤解を与えかねないものなのではないかと感じます。例えば、その教えは、安易に社会的地位とお金を儲けて、労働苦から自由となり、美味しいものをたらふく食べ、安楽な生活をおくることが賢い生き方で、労働苦をはじめ何かと苦労・苦悩しなければならない生き方をおくらなければならないのは「おろか者」だからだというように誤解されかねないのです。

 宮沢さんもそうした誤解の恐れを感じていたのではないかと推測します。なぜならば、宮沢さんは、そうした安易、安逸、そして安楽な生き方に辛辣な批判的精神のもちぬしだったからです。また、宮沢さんは、「おろか者」=ほんものの聖人を主人公とする多くの童話を創作しています。さらに、宮沢さんは、生きていく中での痛み、悲しみ、苦労と苦しみは真剣・真摯に生きている証であり、それらの「苦」を乗り越えてくなかで人間としての成長がある(宮沢さんにとっては成仏と極楽浄土建設への道が開かれてくる)と考えていたように思います。

 宮沢さんは農学校の教師時代、教え子にこれからどう生きたらよいかについて次のように諭しています。それは、「しっかりやるんだよ/これからの本統の勉強はねえ/テニスをしながら 商売の先生から/きまった時間で習ふことではないんだよ/きみようにさ/吹雪やわづかな仕事のひまで/泣きながら/からだに刻んで行く勉強が/あたらしい芽をぐんぐん噴いて/どこまで延びるかわからない/それがあたらしい時代の百姓全体の学問なんだ」というものです。

 宮沢さんは、全くの推測にすぎないかもしれませんが、成仏と極楽浄土建設のプロである出家者ではなく、当たり前の社会生活をおくっている誰もが、成仏と極楽浄土建設の主人公となれる道を求めていたのではないかと思います。そうした宮沢さんの思いを後押ししたブッダの教えというものはあるのでしょうか。

 この点について宮沢さんの思いを後押ししたブッダさんの教えとは、『発句経』の244と245の詩句ではないかと思います。ではそれぞれどのような詩句なのでしょうか。244のそれは以下の句です。

 「恥を知らず、鳥(からす)のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者(ひと)は、生活し易い」〔『ブッダの真理のことば感興のことば』中村元訳、岩波文庫青302-1、2023年(第69刷)〕

 そして、245の詩句は以下の句です。

 「恥を知り、常に清きをもとめ、執着をはなれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮す者(ひと)は、生活し難い」

 このアイデアは、仏教に不案内な私が自分だけで思いついたのではなく、小池龍之介さんの『超訳 ブッダの言葉』という本に出会ったことで閃いたことによるものです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン