シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(3)

 社会学的に見ると、社会における日常生活の中での自他の感情交流における他者の目の内面化よって形成される自我は、それゆえ、自己内自己と自己内他者との関係構造をもっています。すなわち、自我とは全くの個人的な、または個体的なものではなく、自分の内面世界における自他の関係性と交流によって不断に変化していくという性質をもつものとして存在しているのです。

 内面世界の自他の交流にとって重要な働きをしているものがことば(言語)です。それは言語学の分野ですが、人間に特有のコミュニケーションメディアとしての言語の発生もまた、人間の社会生活の賜物です。ことば(言語)のお陰で、人間は、個人的経験をことば(言語)によって他者もまた共有化することを可能とすることによって、社会的な経験にまで拡張していくことができるのです。それは、宗教における教えの社会化、すなわち布教にとっても土台となっている要素ではないかと思います。

 このことばは個人の内面世界における自己内自己と自己内他者との間のコミュニケーションツールとして重要な働きをしています。すなわち、内言です。そして、その内言は、またまた単なる個人的なものではなく、自己の外的世界の自己の感覚諸機関による認知を他者にも伝達可能な形に翻訳する形での認識にまで精整・製し、外的他者とのことばを通したコミュニケーションによる社会的共有化の土台でもあるのです。

 また、この内言の経験の積み重ねによって、人間個人の内面世界に発生史に大きな変化が誕生することになります。すなわち、自分は他の何物(者)でもない自分であるという私(わたくし)意識や、思考、そして意志・意思の働きが個人の内面世界に誕生してくるのです。そうした諸働きを含めて、社会学は個人における内面世界の機能を自我と呼ぶのです。ここまでの簡単な考察からも分かるように、この世に自我なるものが実体として存在し、個人はその自我を自動的に自分の内面世界に装着して生まれてくるわけではないと社会学は見ます。そのことを踏まえると、社会学の自我論は、実体としての自我の存在を否定しているという意味で「無我」論的性格を有していると言えるでしょう。さらに言えば、自我とは、現実的には、この世の人間世界に、個々人の誕生と死を通して、不断に誕生しては消えていくという形で明滅しつづけている存在なのです。

 以上のように、社会学的には、自我とは他ならない社会的自我です。さらに、社会学は、その社会的自我を、限りなく非社会的な社会的自我と限りなく社会的な社会的自我の性格を帯びるものに分類して把握しようとします。すなわち、自我は、限りなく自己の内側に閉じこもろうとする性質と、限りなく外へ、外へと開かれていこうとする性質の、二律背反的な方向へと動いていく性質を有しています。仏教との関りで言えば、仏教においては個人の生老病死を四大苦と見ているようですが、上記の社会学的視点から言えば、限りなく社会的な性格を有するようになっていく社会的自我にとっては、苦しんでいる他者の存在を見ることこそが最大の苦となるものと把握できるのです。

 そのため、社会学的に見ると、仏教がめざしている「抜苦与楽」という教えは、限りなく自己内面に閉じていく方向性と限りなく他者の救済に向く方向性の背反する二つの方向性に分化していくものとなることが予想されるのです。宮沢さんの場合はというと、これら二つの二律背反する二つの方向性をともに引き受けようとしていたと推測できるのです。そのため、宮沢さんは、大きな苦悩を抱え込まざるをえなかったのではないでしょうか。しかし、同時に、そうだからこそ、それらの分化によって誕生してきていたさまざまな宗派間における仏教的「真理」や「正統性」をめぐる争いからは自由な立場に立って自分のめざす仏教像を想像しようとする意欲をたぎらせることにつながっていったのではないかと考えるのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン