シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

仏教と倫理に関するジレンマと宮沢賢治さん(2)

 末木文美士さんによれば、人と人との関係を、「善悪の判断」を基礎に律する道徳的「法」としての倫理には、自他関係における矛盾・葛藤・対立・闘争を避けることができないのです。末木さんは、そうした視点でさらに、宗教と倫理、具体的には仏教と倫理との関係を哲学的に探究しています。そして、その探究の成果を著した著書である『仏教VS.倫理』の中で上述の点に関して次のように言及しているのです。すなわち、

 「なんだか詭弁(きべん)のような議論と思われるかもしれないが、他者の存在はそれだけ問題をやっかいにすることである。理想的人格としてのブッタならば、本当に無償の慈悲が成り立つかもしれない。しかし、少しでも煩悩が残っていれば、人間関係は必ずしも無償の純粋さを保つことはできない。ひとりでいる限り心が平静であっても、そこに人間関係が入り込むと、必ず嫉妬や競争、愛憎などの複雑な感情が生まれてくる」とです。

 末木さんによれば、そうした倫理上の問題は、自利と利他の関係性をめぐって生じてくるのです。少し長い引用がつづきますが、宮沢さんの人生における苦悩や迷いを理解するために重要と考えますので、末木さんの議論に耳を傾けたいと思います。末木さんは言います。「原始仏教の理論はそのような他者との関係から生ずる非合理的な要素を排除することによって」、自分が直面している「生老病死」という個人の実存的とも言える「苦」からの脱却という自利を究極的な形で、徹底的に追究しようとしていました。

 しかし、その後の仏教の展開の中で、「苦しむすべての衆生を救う」というこれまた究極の利他を追究する大乗仏教と呼ばれる仏教が誕生してくるのです。そうした「大乗仏教は(原始仏教が徹底的に排除しようとした)この他者との関係を根本原理に組み込もうとするもので、そこに原始仏教と異なる大きな特徴がある」〔( )内は引用者によるものです。〕。

 「人は他者なしには生きられないのだから、それを原理の中に入れるのは当然だ。と単純にいうことはできない。原始仏教の場合のように、それを原理に組み込まない体系も可能なのである。ところが、他者との関係を組み込むと、途端に問題がややこしくなる。他者は私を無関心、無関係なままにしておいてくれない。そこに、理屈ではどうにもならない愛憎や憎悪のような感情が生まれてくる。相互に自立した修行者同士でも問題が起こるのだから、まして一般の人々や異教徒を相手にするのであれば、平穏で済むはずがない」。

 「場合によっては、争いや暴力も生まれてくるであろう。……こうして大乗仏教は、孤立した個の集合としての原始仏教の共同体では考えられなかった、解決困難な厄介な問題を背負い込むことになる。他者を考慮に入れることによって(道徳)倫理が明らかになるのではなく、かえって(道徳)倫理の原理が曖昧になり、なし崩しに崩壊するのである。他者とは、<人間>のルールを逸脱する得体のしれないものである」〔(道徳)は引用者によるものです。〕。

 この末木さんの議論に接したとき、思わず、宮沢さんが、正確ではありませんが、それは観念の世界の出来事だから、戦争において他者を殺すも、他者によって自己が殺されてもかまわないという考えを披歴していたことや、自分に好意を寄せてくれていた女性を悪魔呼ばわりして遠ざけたというエピソードがあったことを想起してしまいました。

 それらのことに関して、末木さんは、さらに言及していきます。

 「大乗仏教は、このように他者を原理の中に入れることによって生ずる複雑な問題に対して、その中に埋没するのではなく、理想を生かすために、歯止めとなる原理を立てる。ひとつは菩薩の倫理として六波羅蜜(ろくはらみつ)を立て、理念を無限大まで追い求めることを課する。波羅蜜(パーラミター)は完成という意味で、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・智慧(ちえ)の六つの徳目を、中途半端でなく、徹底的に追求しなければならないという。それは中庸(ちゅうよう)を重んじ、極端を避ける原始仏教の発想とは異なっている」。

 「もうひとつは、執着をさけるために『空(くう)』を徹底することを求める。『空』は大乗仏教の理論的な根幹をなすが、実践的にいえば、執着を離れ、とらわれのない自由な境地に立つことを求める」。

 「だが、そのような原理を立てることで、歯止めができるであろうか。かえって問題を複雑化してしまわないだろうか。『波羅蜜』による徹底といっても、それほど容易にできるものではないし、執着のない自由な立場といっても、ご都合主義的な無原則に陥らないだろうか。こうして大乗仏教は、原始仏教にない複雑な問題を抱え込むことになったのである」。

 宮沢さんは、まさしく、ここまで参照してきた末木さんの大乗仏教における倫理上のジレンマを抱え込んでしまっていたのです。宮沢さんが信じた仏教は、まさしく「苦しむすべての衆生を救う」という大乗仏教中の大乗仏教でした。しかも、そのことができる奇蹟的な力をもっているとされている、釈迦・菩薩・如来による救済に頼り、まかせっきりにしない、信仰者自らが救済者となって分け隔てなく、「苦しむすべての衆生を救う」実践をしなければならないという大乗仏教を心から信じていたと考えられるのです。そのことで、宮沢さんは、自分ではどうすることもできない複雑な倫理上のジレンマを抱え込んでしまっていたのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン