シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

内ヶ崎作三郎さんの『人生学』(3)

 宮沢さんは、私たちが生き、生活しているこの宇宙世界を律しているものこそ仏法であると信じていました。内ヶ崎さんも、またこの宇宙世界を律している法とは「実在」であると論じていました。ではそうした究極の法というものを仮定した場合、宗教や科学、そして宗教と科学との関係はどのように論じることができるのでしょうか。ここでは、内ヶ崎さんの議論を追究してみたいと思います。

 はじめに宗教についてどのように論じているのか見ていきたいと思います。興味があるのは、内ヶ崎さんのもまた、宮沢さんと同じように真の宗教とは何かという探究をおこなっていることです。すでに内ヶ崎さんの人生の歩みをたどったとき、内ヶ崎さんはキリスト教の洗礼を受けていたことを確認してきました。その内ケ崎さんが「真の宗教」をどのように論じるのでしょうか。

 内ケ崎さんは、その宗教論を、彼自身が信仰しているキリスト教も含まれる一神教についてから論じはじめます。そして、一神教について次のように言うのです。唯一の神、すなわち「無限の愛と、知と、力の生ける活動の神を認むる事、一切万有の創造者、指導者、維持者の存在を認むるを以て宗教」であるという定義が一神教の宗教についての定義ですとです。

 そして、次のようにコメントしていくのです。「此の種の定義は基督教の為には便利であるけれども、仏教の為には、稍片手落の定義たるを免れない」のですとです。「何(ママ)ぜならば、……原始仏教釈尊の唱えたる仏教は神を認めずして、解脱の道を説いたものである。煩悩から解脱をして清浄無垢の神聖なる一境を開拓すると云うことで、即身即仏であるから、神と云うが如き、見ゆるものと、見えざるものの一切の創造者、指導者、維持者と云うようなものを認める必要はない」のですとです。

 このように内ヶ崎さんは基督教信仰者であるにもかかわらず、基督教以外の宗教も同じ宗教として認めたうえで、すべての宗教を網羅できる定義を求めようとするのです。個人的には、そうした視点で宗教を見たとき、仏教の特徴を、「一切の創造者、指導者、維持者」を否定し、「一身即仏」としてすべての個人的存在の自律と自立性を認めようとする宗教であるとの内ケ崎さんの理解の仕方に興味が惹かれます。

 では内ヶ崎さんは「真の宗教」をどのように定義しようとするのでしょうか。結論から先に見ておくならば、すべての人がもっている人生観それぞれすべてが宗教であると内ケ崎さんは言います。そして、真の宗教は、それらすべての宗教を同じ宗教として認めようとする「非常に大きな包容的なもの」なのです。

 内ケ崎さんは言います。「宗教は、人間が信ずるが故に存する」のです。そして、人間というものは、「自然或は人に対して、何等かの立場を定めなければ気が済まない」存在なのです。

 そのために、人間における思考力の発達とともに、食欲や色欲だけでなく、「人間自らの本性の根底は何であるか、宇宙の根本は何でるか」というような、内ケ崎さんによればより高尚な欲求が生じてくるようになるのです。すなわち、そうした高尚な欲求により、人間存在や「宇宙の本体」を理解せずにはいられなくなるのです。

 内ケ崎さんは、「無神無霊論」者をどのように見るのでしょうか。彼は、そうした人は「無神無霊宗」の信仰者であると見ます。その代表的な人として中江兆民さんを取り上げ、彼は、「唯神も仏もないといって、ポカンとして居たのではない、人に之を伝道しようとした熱烈なる無神無霊魂宗の宣伝者であった」だけなのです。

 それゆえ、「丸っ切り何も宗教がないという人は、一人だっていない。何かを信じて居る。又、何か信ぜずしてしては、生きて居る事に興味を感ぜぬようになる」のです。ただ、自分が信じていることを体系化し、その思想に従って社会的に組織化し、教えとして広めようとすることを多くの人たちはしていないだけなのです。それゆえ、自分がえた人生上の教訓を、または霊感や神秘的で、不思議な出来事を他の人たちと共有化しようとすることの中から宗教的な教団づくりにまで発展させていくなかで、普通私たちが宗教と呼ぶような社会的制度化が展開していくことになるのです。

 人間という存在は、「皆それぞれ何かを考えて居る」存在であり、宗教的な存在なのです。そうした人間存在における「真の宗教」とは、教えの体系化や組織化・制度化、そして霊感・神秘性・不思議などの特性の優劣ではなく、(無神論という宗派も含めて)すべての宗派の宗教を認める寛容さ・包容力と個々人ひとり一人の自律・自立性とその自己研鑽の可能性を認め、そのことを支えようとする支援力のことなのです。そして、それらは社会的存在としてのすべての個々人に多少なりとも属している力のなかに存在しているのです。

 そのことの意味することは、すべての人が「真の宗教」の体現者となりえる可能性を潜在的にはもっていますが、同時に、どんなに立派な既成宗教組織・教団の教祖や信仰者であってもそれらの人たちすべてが「真の宗教」の体現者であるとは限らないということなのです。そのことは宮沢さんが最も強調していたことなのではなかったかと感じます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン