シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

内ヶ崎作三郎さんの『人生学』(4)

 前回は、内ケ崎さんの「真の宗教」論について参照しました。今回は、そのことを受けて、内ケ崎さんはその宗教と科学との関係をどのように論じていたかについて見ていきたいと思います。

 まずそのための前提として、内ケ崎さんは「真の宗教」的態度と科学的態度をどのように捉えていたかについて確認しておきたいと思います。内ケ崎さんは、前者に関しては以下の様に論じています。

 すなわち、「宗教的の行為には、知情意を総合したる所の、全人格を働かして行かなければならぬ」のです。「真の宗教心と云うものは、唯情の発動だけでは駄目であって、知も加われば、意志も加わると云うように、我々の全人格が動いて行くようにならなければなら」ないのです。

 科学的態度とは、そうした宗教的態度とは違って、ひたすら知に向き合っていくことが求められます。純粋に知的真理を求めていかなければならないのです。自分の情や意志(思)は科学的真理のために排除されなければならないのです。それは、社会諸科学にとっても同様です。研究者養成のときにそのことはひとり一人の研究者候補者に血肉化されるまで重ねて強調されます。

 科学的態度のモットーは、真理のための「中立性」(真理だけに忠誠を尽くす態度)です。ここからは蛇足になりますが、しかし、そのことは、裏を返せば、科学的真理とはいかなる目的にも奉仕することのできる性格を有しているということです。すなわち、科学的真理は悪魔にも奉仕することができるものなのです。また科学は人にいかに生き、そして死んでいくのかその道を示すことはできないということでもあります。さらに言えば、科学的真理の名によってその道を示すべきではないということでもあります。

 そのために、本来科学は真の宗教心(社会学的に見れば、真にひとり一人の人権が尊重・保障され、十分に自己実現ができるような社会の建設をめざす心)と結びついてはじめて社会に役立つものとなることができるものであると考えられるのです。しかし、残念なことに、これまで宗教と科学とは対立的に捉えられてきたことも多かったのではないでしょうか。

 内ケ崎さんは科学と宗教の違いを「説明と解釈」の違いとして論じています。内ケ崎さんは言います。「科学というものは、我々の五感に依って知る事の出来る物と物との関係を説明するものであって、其関係を解釈するものではない」のです。すなわち、「説明と解釈とは大いに違う」のです。

 その例として、内ヶ崎さんはアインシュタインの相対性の理論を取り上げ、説明と解釈の違いについて論じています。アインシュタインは「森羅万象の関係は相対的である」と説明はしますが、そこまでで議論を止めて、「何の為に相対性原理を表示するか、若しくは相対的なるものが、森羅万象の間に表れて居るかと云う事は解釈しない」のです。

 そうした科学に対して、宗教は、「宇宙の根本に対して非常な真理を洞破」しようとするのです。それゆえ、宗教は「超科学」的なのですが、内ケ崎さんによれば「反科学」なのではないのです。なぜならば、科学は絶えず宇宙に関する新しい見方とそのことからえられる知識を提供してくれているからです。科学は、「我々の人生観宇宙観」を深めてくれるものなのです。

 「我々の人生観と宇宙観とが科学に依って一層の輝きを加えるに至ることを疑うことは出来ない」のです。「然るに今日、既成宗教と科学とは、犬猿の仲にある」のです。内ケ崎さんの科学と宗教との関係論において、自らが宗教者の一員であるにもかかわらず、宗教の側の弱点的要素への目配りがあることです。

 すなわち、「人生観宇宙観」の解釈の役割をもっている宗教は、また「それに固着して居る多くの迷信」を帯びているという性格をもっており、科学によって解放されなければならないのです。

 また、既成宗教は、「精神的の団体のみより成るにあらずして、一種の政治団体や、財団ある所のものを包含する為」に純粋に真の「人生観宇宙観」の探究に邁進するのではなく、往々にして娑婆世界の俗欲にまみれてしまうという弱点も有しているのです。いかにしてそうした弱点から解放され、真の真理を洞破することのできる宗教になりうるのでしょうか。

 そういえば、宮沢さんは終生まことの幸せや真理とは何かについて問いつづけようとしていました。宮沢さんも、宗教が真の宗教であるためには何か完成されたものとして信じ込むのではなく、不断に革新されていかなければならないものであることを喝破していたのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン