シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(8)

 ここまで思いつくままに宮沢さんがめざした仏教の教えとは何かについて見てきました。その中で、宮沢さんがめざした仏教の教えの特徴をもう少し体系だって理解するためにはどのような視点で見ていけばよいかという思いが浮かんできました。

 とくに、その視点には、宮沢さんの思いと地域の農民の人たちとの関係性をとらえることができるものであることも重要と考えます。ここでは、まだ仮説的ですが、そのための視点として、仏教の教えに関する願い・祈り・救い(救済)・心の平和(平穏)・(快楽ではない)楽しむという五つの要素の内容と関係性という視点を立ててみたいと思います。そして、その視点で、自分が救済しようとしている農民の人たちとの関係性において宮沢さんが抱えたジレンマを考察していければと思います。

 すなわち、上述の仏教の教えに関する五つの要素の内容と関係性において、宮沢さんの考えるものと農民たちの心の中にあるものとには、重なる部分と(大きくまたは小さく)ずれてしまう部分が、どうしてもでてくるのですが、そのことに宮沢さんは苦しんでいたと感じるのです。とくに、1927年8月20日の日付が入った詩の作品群には、そのずれに苦悩する宮沢さんの心情が綴られていたことはこれまで参照してきた通りです。

 『春と修羅 第三集補遺』の「心象スケッチ、退耕」と「雲」という作品もそうしたずれに悩む宮沢さんの心情が綴られています。前者の作品から参照してみたいと思います。

 「黒い雲が暖かく妊んで/一きれ一きれ/野ばらの藪を渉って行く。/そのあるものは/あらたな交会を望んで/ほとんど地面を這うばかり/その間を縫って/ひとはオートの種子をまく/いきなり船が下流から出る/ぼろぼろの南京袋で帆をはって/山の鉛の溶けてきた/いっぱいの黒い流れを/からの酒樽をいくつかつけ/睡さや春にさからって/雲に吹かれて/のろのろともぼってくれば/金貨を護送する兵隊のやうに/人が三人乗ってゐる/一人はともに膝をかヽえ/二人は岸のはたけや藪を見ながら/身構えをして立ってゐる/みんなずゐぶんいやな眼だ/じぶんだけ放蕩するだけ放蕩して/それでも不平で仕方がないとでもいふ風/憎悪の瞳も結構ながら/あんなのをいくら集めたところで/あらたな文化ができはしない/どんより澱む光のなかで/上着の裾がそもそもやぶけ/どんどん翔ける雲の上で/ひばりがくるはしくないてゐる」

 この「心象スケッチ、退耕」という作品にも、あの1927年8月20日付の作品群と同じように、宮沢さんが感じ取った、黒い雲を挟んでの宮沢さんと農民の人たちとの間の心情的な対峙が表現されているように感じます。すなわち、この作品でも、農民の人たちの生活を少しでもよいものとしようとして始めた肥料設計を、たまたま偶然の気候変動によって無に帰することになってしまった事態において、農民の人たちは宮沢さんを「憎悪の瞳」で見るような所業にでるのか、なぜか、なぜかと宮沢さんが問うているように感じます。

 上述の後者の「雲」という作品にもその宮沢さんのジレンマに陥っている心情が表現されているように思います。

 「青白い天椀のこっちに/まっしろに雪をかぶって/早池峰山がたってゐる/白くうるんだ二すじの雲が/そのいたヾきを擦めてゐる/雲はぼんやりふしぎなものをうつしてゐる/誰かサラーに属する女(ひと)が/いまあの雲をみてゐるのだ/それは北西の野原のなかのひとところから/信仰と譎詐とのふしぎなモザイクになって/白くその雲にうつってゐる/  (いましがわれをみるごとく/  そのひといましわれをみる/  みなるまことはさとれども/ 

 みのたくらみはしりがたし)/  ……さう/    信仰と譎詐との混合体が/    時に白玉を擬ひ得る/    その混合体はたヾ/よりよい生活(くらし)を考へる……/信仰をさへ装はねばならぬ/よりよい生のこのねがひを/どうしてひとは悟らないかと/をはりにぼんやりうらみながら/雲のおもひは消えうせる/うすくにごった葱いろの水が/けむりのなかをながれてゐる」

 この雲という作品には、宮沢さんがめざした仏教の教えの特徴の一つが明瞭に表現されているように感じます。それをひとことで言えば、宮沢さんがめざしていた仏教の教えとは、自然信仰に基礎をおく仏教の教えだったというものです。

 この作品では、霊峰早池峰山にかかる二すじの雲が主人公になっています。そして、その雲の思いが、人々の「よりよい生活(くらし)を考へ」ている、すなわち、自然は人間たちの「よりよい生活(くらし)」を考えている存在であると宮沢さんは考えているのです。しかし、そうであればなぜ、自然はときに人間生活に壊滅的な打撃を与えるような荒ぶれた姿で人間を追い詰めるような暴挙にでるのでしょうか。そのことに関しては、宮沢さん自身も、その「たくらみはしりがた」いと、この作品は表現しています。それでもなお、自然は、基本的には、人間の、人間だけでなくこの世のすべての存在にたいして、それらの「よりよい生活(くらし)」を願っているのです。

 宮沢さんは自問します、「どうしてひとは(そのことを)悟らないかと」です。宮沢さんも、そうした自然同様、農民たちの「よりよい生活(くらし)」を願って、肥料設計などの活動をしているのです。しかし、そのことを当の農民の多くの人たちは「悟って」くれません。なぜか、なぜか、そこに宮沢さんの苦悩があるのです。

 その宮沢さんの苦悩に関して言えば、宮沢さんは後に、農民たちは自分がその人たちのよりよい生活を願って、ときには命をかけて活動していることを理解してくれないのはなぜかと考えること自体、自分がいかに高慢な考えに陥っていたかと気づき、反省していくことになるのです。そこが塔を建てる者としての矜持を有している宮沢さんの宮沢さんたる所以です。

 ここまで宮沢さんがめざした仏教の教えとは何かを追いかけることで、宮沢さんはもしかしたら日本古来の山岳信仰を基礎に仏教の教えを受け止めようとしていたのではないか、そして、1927年8月20日の試練およびその後の東北砕石工場との関り以降、宮沢さんの自分の生き方に関する模索の方向性は、比較という視点で見ると、良寛さんの人生の歩みに類似するものとなっていったように感じます。

 それらの点に関しても今後考察していければと思います。がその前に、宮沢さんがどのような試練に直面しても常に前向きに自分の生き方を方向づけしようとしていたことに関して参照しておければと思います。それは、どのような仏教の教えと関係していたのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン