シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

「藤根禁酒会へ贈る」

 1927年8月20日の試練を経て、宮沢さんは、自然との闘いに関してはもはや自分の出る幕ではないと悟ったのではないでしょうか。1930年4月4日付の高橋武治さん宛の手紙の中で、宮沢さん自身、当時自分が傲慢であったことを告白しています。それは、次の手紙の文章です。すなわち、

 「私も農業校の四年間がいちばんやり甲斐のある時でした。但し終りのころわずかばかりの自分の才能に慢じてじつに虚傲な態度になってしまったこと悔いてももう及びません。しかもその頃はなほ私には生活の頂点でもあったのです。もう一度新しい進路を開いて幾分でもみなさんのご厚意に酬いたいとばかり考へます」とです。

 この手紙から、宮沢さん自身、冷害との闘いを通して自己が「虚傲」であったとの自己認識にいたったことが示されています。その結果、「本統の百姓」になるという自己の目標を断念したことも表明されています。同時に、「みなさんのご厚意」に酬いるためにも「新しい進路」を探索していることも表明されています。では、その新しい進路とはどのようなものだったのでしょうか。さらに、宮沢さんは自然との闘いについてどのような展望をもっていたのでしょうか。ここでは後者の問いについて考察を進めていこうと思います。この点に関しては、「詩ノート」の中の「藤根禁酒会へ贈る(作品番号一〇九二〔〕)」という作品に示されていると思います。その冒頭に次のように記されています。

 「わたくしは今日隣村の岩崎へ/杉山式の稲作法の秋の結果を見に行くために/ここを通ったものですが/今日の小さなこの旅が/何という明るさをわたくしに与へたことであろう」とです。

 この文章は、宮沢さんが教え授けなくとも、農民の人たち自身が自分たちの地域にあった稲作法を創造し、過酷な自然に立ち向かおうとしている活動に勇気づけられていることを推察させてくれます。宮沢さんはそのことをつづく文章の中で次のように表現しています。すなわち、

 「雲が蛇龍のかたちをになってけわしくひかって/いまにも降り出しさうな朝のけはひではありましたが/平和街道のはんの並木は/みんなきれいな青いつたで飾られ/ぼんやり白い霧の中から立ってゐた/しかも鉄道が通ったためか/みちは両側草と露とで埋められ/残った分は野みちのやうにもう美しくうねってゐた」とです。

 この文章では、杉山式の稲作法を実践している農民の人たちの試みの前途を、「平和街道」という表現で著していることに惹かれます。宮沢さんは、つづけて綴ります。

 「この会がどこからどういふ動機でうまれ/それらのびらが誰から書かれ/誰にあちこち張られたか/それはわたくしにはわかりませんが/もうわれわれはわれわれの世界の/一つのひヾを食ひとめたのだ」とです。

 この文章にある「ひヾを食いとめた」とは、杉山式の稲作法はが「この三年にわたる烈しい干害」に対する対策についてものであることを示していますが、同時にそれは過酷な自然との闘いであるという点で、冷害への対策的対応の在り方とも共通するものではないかと思います。この文章で重要な点は、宮沢さんがここでは「ひヾを食いとめた」のは、自分ではなく、「われわれ」であるということを強く意識したということではないかと考えます。すなわち、「われわれの世界の……ひヾを食いとめ」るのは、「われわれ」なのです。

 しかも、宮沢さんは、干害に対抗する稲作法の成功に甘んじることなく、「禁酒会」を建設し、さらに自分たちの生活改善を志向している農民の人たちの姿に、自分がめざしている自分たちが生きて生活しているこの世に極楽浄土を建設する可能性が開かれつつあることの予感を感じているようなのです。それらは、この作品では、以下のように著されています。

 「じつにいまわれわれの前には/新しい世界がひらけてゐる/一つができればそれが土台で次ができる」

 「われわれは生きてぴんぴんした魂と魂/そのかヾやいた眼と眼を見合せ/たがひに争ひまた笑ふのだ」とです。

 実に宮沢さんは、過酷な岩手の自然との闘いを通して、自分が「虚傲」であったことを悟っただけでなく、自分がめざしていた極楽浄土建設の方向性をも見出したと言えるのではないでしょうか。だとすると、宮沢さんは、その後の極楽浄土建設過程の中での自己の役割をどのように定めようとしたのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン