シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

「〔二時がこんなに暗いのは〕」

 宮沢さんは、自身が肥料設計した稲を次々と倒しながらうちつづく雷をともなう冷雨の中をさまよい歩いています。そのときに見た農民の人たちの生活の心象風景とはどのようなものだったのでしょうか。『春と修羅第三集』における「〔二時がこんなに暗いのは〕」はその心象風景を詠んだ作品です。

 そしてそのもとになった作品が、「詩ノート」における「路を問ふ」です。ここでは「路を問ふ」に著されている宮沢さんの農民生活に関する心象風景から参照していきたいと思います。

 「たうたうぶちまけやがる雷め/路が野原や田圃のなかへ/幾本にも斯う岐れてしまった上は/もうどうしてもこの家で訊くより仕方ない/何といふ陰気な細い入り口だらう/ひばだの桑だの倒れかかったすヽきだの/おまけにそれがどしゃどしゃぬれて/まるであらゆる人を恐れて棲んでるやうだ/雨のしろびかりのなかの/小さな萱の家のなかに/子供をだいて女がひとりねそべってゐる/   そのだらしない乳房やうちわ/   蠅と暗さと、/    女は何か面倒そうに向ふを向く」

 以上の引用した文章からも分かるように、「路を問ふ」では、宮沢さんはこの作品だけを見るならば、当てもなくさまよい、枝分かれしている「路」を訪ねるために、偶然立ち寄った家で、陰気で暗い家の中にだらしなく寝そべっている女の、しかも宮沢さんの問いに対して面倒だとそっぽを向いてしまった心象風景を読んでいるように感じます。もしかしたら、女がそっぽを向いてしまった風景に、自分は非難されている、または嫌われていると感じたのかも知れません。

 では宮沢さんは何の意味もなく雷をともなう冷雨の中をさまよいあるいていただけだったのでしょうか。すなわち、ただ不安と心配で居ても立っても居られないからだったのでしょうか。または、絶望のあまりの彷徨だったのでしょうか。この点に関して参考となる文章が、『春と修羅第三集の補遺』の中の「〔降る雨はふるし〕」という作品の中にあります。それは、

 「もうレーキなどほうり出して、〔〕/かういふ開花期に/続けて降った百ミリの雨が/どの設計をどう倒すか/眼を大きくして見てあるけ」という文章です。

 そして、これらの行に先行する文章では、「降る雨はふるし/倒れる稲はたほれる/たとへ百分の一しかない蓋然が/いま眼の前にあらはれて/どういふ結果にならうとも/おれはどこへも逃げられない」と綴られており、まさしくそのときは追い詰められた心情にあったことを詠んでいるのです。そして、その心情は、自分の肥料設計を受け入れてくれた農民の人たちへの心象風景にも反映しているようです。すなわち、この作品の最後の数行にはそれが次のように表現されています。

 「たくさんのこわばった顔や/避難するはげしい眼に/保険をとっても〔辨〕償すると答へてあるけ」とです。すなわち、結果責任を取らなければならないと追い詰められていた心情による目から、農民の人たちの「こわばった顔」は、自分を非難している風景として宮沢さんは感じていたのです。

 このことを確認し、上記の「路を問ふ」における農民の生活風景に関する心象風景は、「〔二時がこんなに暗いのは〕」においてはどのように書き改められているのか、そのことに目を向けたいと思います。この作品では上記の心象風景は、

 「そしていったいおれのたづねて行くさきは/地べたについた北のはげしい雨雲だ、/こヽの野原の土から生えて/こヽの野原の光と風と土とにまぶれ/老いて盲いた大先達は/なかばは苔に埋もれて/そこでしづかにこの雨を聽く」と書き改められています。

 この「〔二時がこんなに暗いのは〕」では、「盲い」てなおしずかに雷をともなう冷雨の先行きを耳で聞くことによって読み取ろうとする「大先達」を描いています。それには、宮沢さんの、自分はこれからどうすればよいか、自分には何がたりなかったのか、必死に探求しようとする宮沢さんの心象風景が表現されています。そして、自然と闘うには、「盲い」るまで体をはった息の長い闘いの経験が必要なことへの思いをあらたにしたのではないでしょうか。

 ではどうすればよいのか、その答えを求める模索はつづきます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン