シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

「〔もうはたらくな〕」(3)

 ここで取り上げている宮沢さんの「〔もうはたらくな〕」という詩は、宮沢さんの肥料設計という活動が、(気候変動を含む)地域の自然および農家経営の実情を熟知し、それらへの対策および改善法として確実な見通しと自信をもって臨んだものではなかったことを示しています。しかしそのことがかえって、この活動開始後宮沢さんが農業生産という視点でとくに天候を中心に自然観察することを促すものとなっていたように思います。

 さらに、折角その努力が実ろうとした瞬間の、うちつづく冷雨による稲の倒壊という試練は、宮沢さんが地域の農家生活や農業生産の様子を観察することを促すものとなったものと思われます。しかも、1927年8月20日の日付の作品だけを見ても、『春と修羅第三集』として発表された作品とそれらの作品に関係する補遺や「詩ノート」の作品を比べたとき、それら農家生活観察の目線と観察からえられ作品に表現された心象風景が変化していることに気づきます。

 ではそれらの変化とはどのようなもので、何を意味するものだったのでしょうか。まず『春と修羅第三集』の「〔もうはたらくな〕」のもとになった「詩ノート」の「〔ぢしばりの蔓〕」(「詩ノート」における作品番号1087)における表現との比較をしてみたいと思います。

 第一に気づくのは、「もうはたらくな」では「おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲」という文章は、「ぢしばりの蔓」では、「おれの教へた稲」という表現となっていたということです。それは、肥料設計という活動における宮沢さんと農民との関係性を、宮沢さんが教え・教えられる関係性として捉えていたことを示しています。そしてそれは、さらに農民の人たちが、宮沢さんが教えたとおりに行動するようにと、つよいことばで言えば、強いていたことを示しているのです。

 では、農民の人たちは宮沢さんの教えの下に、どのような行動をとったのでしょうか。それは、「祈り」(「詩ノート」における作品番号1088)という作品に著されています。その文章は、

 「一冬鉄道工夫に出たり/身を切るやうな利金を借りて/やうやく肥料(こえ)もした稲を/まだくしゃくしゃに潰さなければならぬのか」というものです。この文章をみて、ようやくうちつづく冷雨による稲の倒壊という事態に宮沢さんがあれほど狼狽しなければならなかったのか、その理由に合点がいきました。

 また、「もうはたらくな」の中にある「青ざめてこわばったたくさんの顔」という文章は、宮沢さんの教えに従った行動をとった農民たちの宮沢さんに対する怒りを表現したものだけではなく、「利金」つきの借金をどうしたらよいかという不安に駆られている姿を表現するものだったのではないかと推測できるのです。そしてそのことに宮沢さんは確信と自信もなく自分が指導してしまったことへの責任を大いに感じざるをえなかったのでしょう。宮沢さんはそういう人だったのです。しかも、その心情は悲哀と悲壮感にみちています。

 宮沢さんは表現します。「穫れない分は辨償すると答へてあるけ/死んでとれる保険金をその人たちにぶっつけてあるけ」とです。この文章には、宮沢さんの農民の人たちに対する怒りと自己へ向けられた反省の気持ちがいりまじっている複雑な心情が表現されているような気がします。そして、ここまで参照してきた「詩ノート」の表現部分は、「もうはたらくな」の中では次のように書き改められていました。

 まず前者の表現に関してですが、「おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲が」と書き改められています。「教へた」という自負心的表現が、その結果としての事態に対する「責任」を感じる心象風景へと改められています。

 後者の表現に関しては、「どんな手段を用ひても/辨償すると答えてあるけ」と改められています。「死んでとれる保険金」の文章は、「どんな手段を用いても」と、少し冷静さを取り戻している表現に和らげられています。また、そのお金を「その人たちにぶっつけてあるけ」と、「詩ノート」においては農民の人たちへの怒りの感情さえ示していた表現が、これも「答へてあるけ」と和らげられています。

 さらに、1927年8月20日づけの一連の作品を、『春と修羅第三集』の作品群とその補遺および「詩ノート」のそれらと比べて見ると、厳しい事態下における農民の人たちの生活風景へ向けられた宮沢さんの心象表現にも変化が確認されるのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン