シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんと三澤勝衛さん(1)

 宮沢さんと宮沢さんが救おうとした貧しい農民の人たちとの関係性を考えながら、宮沢さんは当時の農民の人たちの窮状と惨状にどのように向き合えばよかったのだろうかという問いが浮かんできます。少なくとも、そうした志をもった宮沢さんが農民の人たちから心から受け入れられるには何が必要だったのか、少し、探究してみたくなりました。

 そのために、あらためて以前参照した和田文雄さんの著作、『宮沢賢治のヒドリ――本当の百姓になる』を読み直しています。そのことで、以前上述の和田さんの本を読んでいたときに読み飛ばしていたところがいくつもあることに気づきました。やはり、宮沢さんのことを知るために貴重な本は繰り返し読まなければならないな、と感じた次第です。

 例えば、ここのブログで取り上げてきた、南部藩百姓一揆と宮沢家との関係について、和田さんはすでにこの本の中で以下の指摘をしていたのです。その部分を引用しておきたいと思います。

 まず、「宮沢家の祖は元禄九年九月二日没の藤井将監で京より花巻へ下った人で、宮沢家の菩提寺安浄寺の住職として来花したという。(南部藩百姓一揆のときには)この人は領主や城代の側についた人ではなく商工業を営んだ市井の庶民であった」〔( )内は引用者によるものです。〕のです。したがって、一揆が勃発したときの「前代未聞の大凶作にて人死多く背負子の腕を食いたる母あり」というような恐ろしい「惨状を宮沢家の始祖はこれを見聞している。後裔、賢治にも引き継がれたといえよう。あるいは宮沢一族のなかでもっとも色濃く受け継いでいるのではないだろうか」と思われるのですと。

 またまた大切なことを勉強することができました。和田さんに感謝します。また、宮沢さんは農民の人たちにどのように接したらよかったのだろうかという現在の関心事に関しても、和田さんは、宮沢さんは興味ある指摘をしていたことをあらためて知ることになりました。その指摘とは、宮沢さんは、農民の人たちとの接し方において、傲慢であったというものです。

 あれほど貧しい農民の人たちの窮状を救うことに自身の命までかけた宮沢さんが傲慢であったとはどういうことなのでしょうか。少し自分なりに考えてみようと思います。その手始めに、宮沢さんの当時の冷害・凶作・飢饉への対応の仕方について確認しておこうと思います。

 周知のように宮沢さんは、当時肥料相談所の活動と土壌改良のための石灰石販売によって地域の冷害による凶作に立ち向かおうとしました。しかし、その方策は、和田さんによれば、当時の地域農業の状況にとって適切であったとは言えないと指摘しています。第一に、その方策は、お金がかかり、とくに貧しい農民の人たちが採用するものとはなりがたかったからです。さらに、石灰石は土壌を改良する間接肥料であり、増産を促すものではなかったのです。では、どうすればよかったのでしょうか。そのことを考えるために、昭和恐慌期の窮乏化する農村を救うための農業改善法を提案し、地域農業のあり方に影響力をもった三澤勝衛さんの活動に着目してみたいと思います。

 三澤勝衛さんは、1885年、現在の長野市信更町の農家に生まれています。宮沢さん生誕に11年先立つ誕生となります。尋常高等小学校卒業後、農業に従事しながら勉強をつづけ、苦学の末小学校の代用教員になっています。その後、検定試験に合格し、1920年、当時の県立諏訪中学校の地理科の教諭になりました。そして、その教諭時代に、とくに昭和恐慌以降急速に窮乏化していった郷土の農村地域を救済するための活動に生涯を捧げていくのです。まさしく、宮沢さんが故郷岩手で行おうとした活動を、時期的にも宮沢さんが活躍していた時期と重なる形で、またそれ以降に長野で実践していたのが三澤さんだったのです。

 三澤さんが提案した窮乏化する農村を救うための農業改善法はどのようなものだったのでしょうか。それは、三澤さんが地域農業に関するフィールドワークを通して発見した三澤さん独自の「風土」思想にもとづくものでした。三澤さんは、大気と土の「化合物」としての風土に着目し、風土と作物の最適な組み合わせを探究する農法を奨励したのです。

 そして、その農法は、自然の無価格であるが、偉大な価値をもつ力を活用し、経費・資源の節減をめざすものです。また、風土と作物の最適な組み合わせを探究するための三澤さんのフィールドワークは、農民の人たちの経験と知恵から学ぼうとする姿勢のものでした。この点でも、教え、指導し、与え、そして説得しようとする宮沢さんの農民の人たちとの向き合い方と異なるものだったのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン