シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

歓迎される喜びを力にして

 宮沢さんが自分の肉体的、精神的健康を害してでも石灰肥料のセールスをしつづけるよう突き動かしていたものとは何だったのでしょうか。基本は、宮沢さんが生きていた時代の冷害をはじめとする自然災害に打ちのめされていた農業生産の状況を何としても改善したいという願いだったのではないでしょうか。

 現在の農業生産技術の視点から見て、宮沢さんがセールスしていた石灰肥料がそのためにどれだけの有効性をもっていかについては大きな疑義が提出できるのかも知れません。しかし、宮沢さん自身は自分がセールスしている石灰肥料で土壌を改善し、自然災害に強い農業生産の土台を築けると信じていたものと思われます。

 和田さんは、宮沢さんがセールスしていた石灰肥料を使って高村幸太郎さんが岩手県山口村で食べるために開拓を実践し、それを文芸作品として残していることを紹介しています。「開拓に寄す」という題のその作品は次のようなものです。

 「掘っても掘ってもガチリと出る石ころに悩まされ/藤や蕨のどこまでも這う細根(ほそね)に挑(いど)まれ/スズラン地帯やイアタドリ地帯の/酸性土壌に手をやいて/宮沢賢治のタンカルや/源(ママ)始そのものの石灰を唯ひとつの力として、/何もない戦後以来を戦った人がここに居る」というものです。

 少なくとも、高村さんは、「宮沢賢治のタンカルや/源始そのものの石灰を唯ひとつの力として」いたのです。高村さんは、石灰肥料のことを、「原始」ではなく、富の源という意味で、「源始」と表現しているのではないかと思います。

 また先行研究においては、東北砕石工場の労働者の人たちとの交流が宮沢さんのセールスの大きな原動力となっていたことが指摘されてきました。『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』の著者である伊藤良治さんがそれはどのような交流であったのかについて詳しく紹介しています。

 東北砕石工場は、先に参照していた和田さんによれば、肥料の製造販売会社としては実績のない、しかも肥料に関しては素人の経営者が経営している宮沢さんがセールスの仕事をするには「最悪」の条件の会社だということでした。

 しかし、働く人にとって東北砕石工場がどのような環境の会社であったのかについて、伊藤さんは、働く人たちが楽しく交流している心温まる雰囲気をもった会社であったことを描いています。

 鈴木實さんの著作である『宮澤賢治と東山』から次のような叙述を伊藤さんは引用紹介しています。東北砕石工場では、「工場の機械が止まっても、(働いている人たちは)すぐ帰ることはなく、あとはみんないろりを囲んでお茶をのみながらゆっくり四方山話に興じ、特に冬などは、おそくまで話に夢中になって楽しそうに遊んで帰りました。時々東蔵が酒などを出しますと、一層にぎやかになりました」[( )内は引用者によるものです。]というのが、それです。

 宮沢さんはそうした雰囲気をもつ工場に、伊藤さんによれば、「身を低くして入ってきた。そしてたちまち工場で働く工員たちと賢治との間にあたたかい血の通う親和関係が形成されていった」というのです。

 工場で働いていた彼らは、「賢治の人柄を慕い、尊敬のまなざしで賢治の訪れを迎え、お土産をもらえば単純に喜び、また彼と話しできたと自慢するような工員たちがそこにい」たというのです。そうした歓迎ぶりは、それまでとりわけ貧しい農民の人たちから何かにつけて白眼視されてきた宮沢さんにとっては、どんなにかうれしいことだったか、想像するにあまりある出来事だったのではないでしょうか。

 伊藤さんが紹介する宮沢さんと東北砕石工場で働く人たちとの交流の風景の中で、畠山八之助さんの父と娘さんとの交流は、ひときわ興味を惹くものではないかと思います。東北砕石工場で働いている人たちは、基本は農民の方々ですが、農業だけでは生活できず、そのために工場で働かなければならなかった人たちでした。その中でも、畠山父娘さんの家族は貧しい生活をしていたというのです。

 そして、伊藤さんによれば、宮沢さんは、その父娘の家を訪ね、「八之助が『貧乏は少しも恥ずかしいことではない』と娘を励ましながら、その日その日を、やっと過ごしてきている親子二人の暮らしぶりに接し」ていたと言います。そこで、「二杯目のお茶に、生石灰を焼き釜から拾いに外に出たとき、そっと涙も拭ったことであろうと」推測しています。

 それは、「ヒドリのときは涙をながし」という「雨にもまけず」の一節を彷彿させる描写となっているものです。伊藤さんは、上記の著作出版時、「石と賢治のミュージアム」の館長をしていましたので、ここまで参照してきた宮沢さんと東北砕石工場の工員の人たちとの交流風景は美化されているかもしれないという疑念も起こるかもしれません。

 ただ肥料設計や営農相談に関しては厳しい批評をしていた和田さんも、東北砕石工場におけるセールスを通して宮沢さんは、「百姓がヒドリにしか生きることができないなかに立つことができた」のではないかと論じています。

 「百姓が凶作のとき、日手間とりにゆく、賢治は石灰販売のため病をおして東京まででかけていく、あい通ずるものがうまれて」きて、東京の病床の中での「『雨ニモ…』構想への集大成へとむかっていったものとおもわれる」と和田さんも言及しているのです。

 ヒドリをしなければ生活が成り立たない東北砕石工場で働く人たちの生活実態を知ったことが宮沢さんの健康を害してまでのセールスへののめり込みの背景となっていたのではないかと、伊藤さんは推測しています。

 すなわち、「その実態を知った賢治が『この人達のためにもと、努力の決意を固めた』ことに、私(伊藤さん)はすなおに共感できる」[( )内は引用者によります。]というのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン