シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

農学校教師を辞める(2)

 なぜ宮沢さんは、1925年初頭ごろから自分の「進むべき道、生活の転換を考え始め」るようになっていったのでしょうか。まず『宮沢賢治思想と生涯 南へ走る汽車』の著者である柴田まどかさんの議論を参照してみようと思います。

 柴田さんは、その点でまず、「この時期の教育を取り巻く環境が厳しくなりつつあったことも理由の一つであったろう」と推測しています。すなわち、この時期、大正デモクラシー自由主義的な風潮が軍国主義化の波に呑み込まれていったのです。

 「その波のひとつ、一九二四年(大正十三)九月、文部大臣直々に発令された『学校演劇禁止令』は賢治の演劇活動を直撃していた。翌年十一月、賢治の行う教育を理解支援してくれていた畠山校長は他校へ転勤となった」のです。

 宮沢さんが農学校で行っていた自由主義的で、ユニークな教育活動がもはやできなくなりつつ環境へと変化していたのです。柴田さんによれば、しかし、そうした教育環境の変化は、あくまで宮沢さんが教師を辞して新たな活動に向かおうとしたことの理由のひとつにすぎなかったといいます。

 では新たな活動へと向かおうとしたより重要な理由とは何だったというのでしょうか。柴田さんは、1924年4月20日自費出版した「詩集」『春と修羅』が世間から自分が意図したように受け止めてもらえなかったことに対する失意と苦悩というのが真相であったと論じています。柴田さんは言います、

 「詩集」「『春と修羅』。それは賢治の信仰を伝えるためのものであった。この現実世界がいつか浄土と化す輝かしい希望に満ちた世界なのだという『画期的事実』を人々に知らせ、死後の浄土を夢見るのではなく、今生きるこの世を心正しく生きることが大切であることを語りかけるために、賢治は詩集を出版した」のです。

 しかし、いざ出版してみると、そのことに気づいてくれる人はただの一人もいなかったのです。「賢治本人の気負いに満ちた意図と反して、誰一人詩の意味に気付く者はいなかったという落胆と失意がこの時期にはあった」のです。

 そして、作品「雲」(1924.9.9)の「頃から賢治は、新しい実践への道を真剣に模索していった」のです。さらに、「[南のはてが]」(1924.10.2)という作品は、「人々に自分の信仰とその問いかけを理解してもらえなかった悲しみ、そして、それまでの実践が人々に自分の信仰とその理想を伝えるには不十分であるのなら、更にあらたな実践をもって人々に伝えていくしかないという決意を綴」ったものだというのです。

 ではどのような実践を行えばよいと宮沢さんは考えたというのでしょうか。柴田さんによれば、トルストイさんの晩年の生き方に範をとった生き方をするというものではなかったかと推測します。

 すなわち、トルストイさんにとっては、「人生の最後を迎え、また帝国主義が台頭し人が人を搾取し殺しあう時代の中で、彼にできるただ一つの行為が貴族として他を収奪して得た財を捨てるという行為であった」のです。

 そして「賢治は(その)トルストイの行動と意味を的確に理解し、深い感銘を受けていたのであろう。賢治が自らの財というべき豊かな報酬を得ていた農学校教師の職を捨て、羅須地人協会の活動に踏み出す時期に、自らの心に吹く風を『南の風』と表現し、自らの姿を『南へ走る汽車』と位置付けていく背景には、トルストイ最後の行動があ」[(その)は引用者によるものです。]ったのです。

 そして、宮沢さんは決意します。「人々が争わず、搾取・収奪することもなく、労働を厭わず、芸術を人の心を豊かに掘り起こし伝え合うものとして位置付け、人々皆の幸福を願って生きる生き方、それはトルストイが文学と自らの生き方をもって主張し問いかけたものであり、また何よりも『この世の浄土』という賢治自身の理想を実現するために求められた生き方だったのである。人々皆の、命あるもの皆の幸福の実現、この世の浄土。その理想の実現に向けて生きるとき、人々に求められるのがそうした生き方だった」のであります。

 この最後の引用文は、柴田さんによる羅須地人協会の性格づけの文章でもあります。トルストイさんの影響との関係で、なぜ宮沢さんが農学校教師をやめ、新たな実践へと踏み出していったのかということに関し、このように論じることができるのかということを、興味深く学ぶことができたことは楽しい経験でした。

 しかし、もう少し別の論じ方もあることを、さらに確認しておきたいと思います。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン