シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

自然との闘いから宮沢賢治さんが学んだこととは(2)

 宮沢さんの深く後悔し、反省することで新たな生きる道を発見しようとする苦闘を導いたものは、再びトルストイさんの人生と宗教に関する議論ではなかったかと推測します。その議論とは、「われわれのように知的労働をしている特権階級の者たちの立場」を恐れずに如何に「自己清算」すべきなのかに関するものです。

 トルストイさんによれば、その「自己清算」とは、「知的労働をしている特権階級」という「われわれの生活がよくない不正なものであるという認識と、同時に、やはりこれを変えるわけにはいかないという主張」の間のジレンマをどうしたら解決できるかという相当困難な仕事なのです。

 トルストイさん自身、その生産のため、「苦悶、探究、解決」図るための努力をしなければならなかったのです。なぜなら、「私とて万人同様の人間である」ということはことばとしては分かっているつもりなのです。しかし、「私が現代世界のあやまれる教えに一般人以上に奉仕し、これを黙認し、現代の支配的な教えを説く人々からより多くの賞讃を博し、したがってほかの人たちよりもいっそう堕落し、道をふみはずしてしまって」いるからなのです。

 トルストイさんが長い苦闘と努力の末にいたったこのジレンマの解決の道は、「自分が高い意義をもつ人間だというあやまった観念」を「心底から悔悟」する道でした。すなわち、「自分を特別な人間であるかのように見ることをやめて、万人と同じ人間として見るようになった時、はじめて私の道は自分にとってはっきりしたものとなった」のです。

 では「万人と同じ人間」として生きるようになるにはどうすればよいのでしょうか。トルストイによれば、「なによりもまず、正しく自活するべく努めること。つまり、他人におぶさって生活しないすべてを学ぶこと」です。その上で、「手、足、頭脳、心など人々の要求が表示されているあらゆるものを用いて、あらゆる機会を摑んで民衆に利益をもたらすよう努める」ようにするのです。

 また、「自分の教養や才能の価値についてのあやまった考えの滓(かす)を身内から除く」ことをしなければならないのです。すなわち、「私が一般人とはちがった特別な人間で、四十年間の実践によって身につけた才能と教養によって人々に奉仕する天職をもつ者だというあやまった観念」を払拭しなければならないのです。

 そのためトルストイさんは、「これだけの知識と才能を身につけたこれほどすばらしい作家として、私はそれらをどうやって人々の利益のために使うべきなのか?」という自らへの問いかけを次のように変更しなおしています。

 「不幸な生活環境のために勤労を身につける代わりに、フランス語や、ピアノの演奏や、文法や、地理や、法律学や、詩や、小説や、哲学理論や、軍事教練などの研究のうちに学生時代をすごしてしまった私、……この私は、これらの不幸な過去の条件にもかかわらず、この間じゅうずっと、いや現在もなお私を養い、着せてくれつづけている人々にたいしてその償いをどうしたらよいのか?」というようにです。

 そしてそのように問い直した問いに次のように回答します。

 これまでの自分の過去の生活を振り返れば、「私が他人と自分を区別し、彼らの一部だけを自分と同等とみとめ、残りのすべては――くだらぬ、非人間……か、愚かで無教育な者(痴(し)れ者)とみとめて」きていました。

 すなわち、「相手が自分以下だと思う者の場合には、そのごく些細な、私にとって不愉快な行為も相手に対する私の怒りと侮辱をよびおこし、しかも私は自分をかような者より高いと考えれば考えるほどいっそう容易に相手を辱めて」いたのですと。

 そうした自己の過去の生活の反省から得たトルストイさんの教訓は、キリストさんの次のようなことばでした。それは、「怒るな、誰をも自分以下だと考えるな、これは愚かなことである。怒ったり、人々を侮蔑したりすれば――汝のほうがいっそう悪くなる」というものです。

 横道に逸れますが、そう言えば宮沢さんもよく怒ってました。また相手を侮辱することばを発していました。そして、宮沢さんはそういう自分のことを、「おれはひとりの修羅(しゅら)なのだ」と表現していました。

 またトルストイさんの反省に戻りましょう。トルストイさんはそれまでの自分の生活を反省し、これからの生き方を次のように定めます。「他人の前でみずからを低く」し、「万人に対してその僕(しもべ)とな」って生きようというようにです。

 トルストイさんはそうした生き方をさらに次のように敷衍しています。少々長くなるのですが宮沢さんの「雨ニモマケズ」の書つけの意味を理解するためにも全文引用しておきたいと思います。

 「これまで私にとって、善きもの、高きものと思われていたすべて――高位、名誉、善きもの、教養、富、生活、環境、食物、衣服、外見的な態度などの複雑と洗練といったような――これらはすべて私にとって悪い、低級なものとなり、百姓臭さ、無名、貧困、素朴、調度・食物・衣服・態度などの簡素――これらがすべて私にとっては善きもの、高きものとなった。したがって、かりに今でも、これらすべて承知していながら、思わずうっかりした瞬間に怒りに身を任せ、兄弟を侮辱するようなことはありうるとしても、平静な状態にあるときは、私は、自分を人々の上におき私から自分の幸福――合一と愛――を奪った誘惑にもはや仕えることはできない」のです。

 自分を敗北者として認めたとき、宮沢さんの脳裏に浮かんだ反省の気持ちとは、まさしくここまで観察してきたトルストイさんの人生上の反省の気持ちと重なっていたのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン