シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

自然との闘いから宮沢賢治さんが学んだこととは(3)

 宮沢さんは苛酷な自然との闘いに敗れたことを認め、再びトルストイさんの人生論から学び、それまでの自分のあり方を痛切に反省していました。それは、他者の目から見てとてもとても痛々しく見えるのでした。しかし、宮沢さんはその痛切な反省を通し、新たな自己の見方と生きる方向性を定めるのです。

 その一つは、貧しい岩手県農民、とくに女性農民のすばらしさを素直に認めることができるようになりました。それは、「[これは素朴なアイヌ風の木柵であります]」という詩の作品に表現されていたように思います。その作品の該当する部分とは、

 「斯ういふ角だった石ころだらけの/いっぱいにすぎなやよもぎの生えてしまった畑を/子供を生みながらまた前の子供のぼろ着物を綴り合わせながら/また炊[爨]と村の義理首尾とをしながら/一家のあらゆる不満や慾望を負ひながら/わづかに粗渋な食と年中六時間の睡りをとりながら/これらの黒いかつぎをした女たちが耕すのであります/……/この人たちはいったい/牢獄につながれたたくさんの革命家や/不遇に了へた多くの芸術家/これら近代的な英雄たちに/果して比肩し得ぬものでございませうか」というものです。

 この作品で描かれている女性農民たちは、宮沢さんが願ってもできなかった数多くのことを、苛酷な生活環境と人間関係の中でりっぱにやりとげているのです。宮沢さんはそのことに、素直に驚嘆し、感動をもしていたのではないでしょうか。

 そのことと関連するのですが、苛酷な自然との闘いを通して宮沢さんが学んだこととして、農家経済を確立することの重要性をあらためて実感したことをあげることができるのではないでしょうか。和田文雄さんによれば、羅須地人協会の活動を始めるに際して、宮沢さんには、「農家ののぞんでいる営農技術、農家という家庭の生活の豊かさの実現をはかる考え」があったといいます。

 さらに実際に羅須地人協会での活動を始めてみると、それでなくても農業だけでは宮沢さん自身だけの生活をも賄えないことを痛感し、忸怩たる思いをしなければなりませんでした。その上、苛酷な天候不順と世界恐慌という経済災害が岩手の農民の人たちに襲いかかってきたのです。

 1926年12月15日付の父政次郎さんへの送金を乞う手紙の中で、自分の不甲斐なさを吐露しています。

 すなわち、「けれどもいくらわたくしでも今日の時代に恒産のなく定収のないことがどんなに辛くひどいことか、むしろ巨きな不徳であるやうなことは一日一日身にしみて判って参ります……わたくしは決して意志が弱いのではありません。あまり生活の他の一面に強い意志を用ひてゐる関係から斯ういふ方にまで力が及ばないのであります。そしてみなさまのご心配になるのはじつにこのわたくしのいちばんすきまのある弱い部分についてばかりなのですから考へるとじっさいぐるぐるして居ても立ってもゐられなくさへなります。どうか農具でもなにでもよろしうございますからわたくしにも余力を用ひて多少の定収を得られるやう清六にでも手伝ふやうにできるならばお計ひをねがいます」というようにです。

 苛酷な天候不順や世界恐慌による経済不況の嵐は、そうした宮沢さんの願いを打ち砕いただけでなく、岩手の人々の生活を悲惨なものとしていったのです。自然との闘いに敗れたことを認めている1932年6月の宛先不明の手紙(下書)の中で、宮沢さんはそのことを次のように表現しています。

 それは、「まあかうなっては村も町も丈夫な人も病人も一日生きれば一日の幸せと思ふより仕方がないやうに存じます」というものです。

 そうした状況に宮沢さん自身は「それにしてもどうしてもこのまヽではいけないと思ひながら、敗残の私にはもう物を云ふ資格もありません」と言うしかなくなってしまったのです。万策尽きてしまった悔しさはいかばかりであったでしょうか。それでもなお、宮沢さんは最後まで農業増産の活動である肥料相談をつづけるとともに、新たな自分の生き方を求めつづけようとするのです。

 死去する3ヶ月強前に当たる1933年6月5日付宛先不明の手紙(下書)の中で、「たヾ咳が烈しくて困ります。日中はそれでも読み書きや肥料設計などできます」と書いています。同時に、同じ手紙の中で、「借金は町も村もです。町の生活だってもう食事や医療まで切り込んでゐ」ることを宮沢さんは心配しているのです。

 地域づくり論を研究してきた者の目から見ると、この手紙の中の次のような叙述の中に宮沢さんのそうした地域の人々の窮状を何としても救いたいという執念を感じさせられ、驚かされるのです。

 その方策は、「今日死ぬか死ぬかと思ふなかから考へた」ものなのです。すなわち、宮沢さんにとって万策が尽きた今、「もはや今日になって貧乏のはなし、前途に光明あるはなし、何かの目論見みなはやりません。東洋人はいかなる物質の条件でもその中で楽しむことを工夫しそれができるのです。その工夫こそあなた方の立場から村を救ふ道であり自らを救ふ道であると思ひます」という方策で悲惨な状況に立ち向かおうというのでした。

 何だ戦前日本の戦時体制にも通じる単なる精神主義的発想じゃないかという批判もできるかもしれません。しかし、どんな状況下でも、「楽しむこと」を追求しようとしている宮沢さんが何を求めようとしていたのかを考えさせられる提言でもあると感じます。

 

                   竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン