シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

東北砕石工場のサラリーマンになる

 宮沢さんは人生最後の活動として、東北砕石工場の営業活動を行っています。そしてそれは宮沢さんにとって大変厳しく苛酷なものでした。その活動の中で宮沢さんは病に倒れ、帰えらぬ人になってしまったといっても過言ではないとさえ思えるのです。

 では宮沢さんにとって東北砕石工場でのサラリーマン生活はどのような意味をもつものだったのでしょうか。結論から言えば、それは宮沢さんの仏国土建設の夢実現にとって大切な活動だったのです。私たちが生きている娑婆世界における極楽浄土を意味する仏国土とはどのようなイメージの世界なのでしょうか。浄土三部経の一つである「無量寿経」を参照しておきましょう。

 「無量寿経」によれば、「かの世尊・アミターバ(無量光)の<幸あるところ>と名づける世界は、富裕であり、豊かであり、平安であり、食物が豊饒(ほうじよう)であり、美麗であって、多くの神々や人間で充満している」世界なのです。

 宮沢さんは羅須地人協会の活動を始めるときから、できればそうした豊饒の世界を実現したいと願っていたのではないでしょうか。しかし、事実は、今日一日生き延びることができるかどうかという非常に悲惨な状況を甘受しなければならなくなっていたのです。

 何かしなければならないと思ってはいたのですが、何をしたらよいのか、宮沢さんは考えあぐねていたのではないかと思います。そうした折り、東北砕石工場の鈴木東蔵さんが、工場の製品である炭酸石灰販売広告の相談のために、宮沢さんを訪問するのです。1930年4月のことです。

 『宮沢賢治 あるサラリーマンの生と死』の著者である佐藤竜一さんによれば、そのとき宮沢さんは病に倒れており面会謝絶の状態だったといいます。そこで5分だけということで会って話し合ううちに、話がはずみ長時間の話し合いになったのです。

 佐藤さんはその理由を次のように推測しています。「賢治はかねがね肥料の講義には、窒素、燐酸、加里の三要素に石灰をも加えていたといわれます。そしてこれは酸性土壌の改良には欠くことのできない重要肥料で、自らも宣伝しながら土地改良に努力しておりましたので、大いに関心がたかまったためでしょう」と。

 「ふたりは、話をして意気投合したようだ。翌日の四月一三日には賢治が訪ねて来てくれたお礼の手紙を書き、すぐに東蔵の返事があった。この手紙には、広告文も同封されていた」のです。東蔵さんから正式な事例をもらう以前から、事実上工場の広告相談役としての活動が開始されていたことを、そのことは示しているのではないでしょうか。それだけ、宮沢さんにとっては、東蔵さんから依頼された仕事には魅力があったのではないかと思います。

 ひとつは、仕事内容の魅力です。土壌改良のための石灰が普及すれば、農業生産における増産の土台が築けます。そのことで東北砕石工場という地域経済を支える事業が発展していくことに貢献できるのです。宮沢さんは生涯何らかの実業に関心をもちつづけていたのではないでしょうか。ただ厳しい市場経済の下における経営のための資質には大いに欠けていたのですが。

 しかも、今回の仕事は自分が研鑽をつんできた専門知識を活かせる、頭脳労働のように当初思えたのではないかと推測します。宮沢さんは、それはいつも実現することはありませんでしたが、つねづね会社の相談役か顧問のような自分の弱い体や健康に負担をかけず自分の生活費を稼げる位の「軽い」仕事をしながら、残りの時間で文学活動ができることが自分の理想と考えていたのではないでしょうか。

 そして今度こそはその夢が叶いそうだと感じたのではないかと思います。しかし、ここでまたしても宮沢さんは、私が私が何とかしなければという、宮沢さんの体や健康にとっては非常に負担となる道を歩んで行くことになってしまうのです。宮沢さんという人はそういう人なのでしょう。

 すなわち、鈴木さんから同封されてきた広告文の改善策だけでなく、「貴工場に対する献策」を宮沢さんは次々に行っていくのです。その内容は、同じく佐藤さんによれば、「販売名称、販価、品質、販路の開拓、新肥料の製造、貴工場の設備でできる他の事業の六項目にわた」っていたのです。

 佐藤さんは、その献策は、「共同経営者とでも言っていいくらいの経営的な視点が入っている」ものだったのです。問題は「販路の開拓」に関する献策です。なぜならば、「後に、この献策にほぼ沿って、賢治のセールスマンとしての仕事ははじま」っていったからです。そして、その道は、自分の健康を害し、死へとつづく道となってしまうのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン