シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

家族の大切さへの気づき

 病床の中のこれまでの自分の生き方を振り返る思索において、宮沢さんは人間の幸福にとって家族の大切さをあらためて感じるようになっていったのではないかと思います。それは、二つの道を通って実感していったように思われます。

 その第一の道は、東北砕石工場で働いている人たちおよびその人たちの家族の人たちとの交流だったのではないでしょうか。とくに、畠山八之助父娘さんとの出会いと交流の経験は宮沢さんにとって貴重な経験となったものと考えられます。

 宮沢さんは東北砕石工場のためにセールスマンとして働いていたとき使用していたとされている王冠印手帳の中で次のような詩作を行っています。それは、「あゝげに恥なく/生きんはいつぞ/妻なく家なく/たゞなるむくろ/生くべくなほかつ/この世はけはし」(『新修宮沢賢治全集第十五巻』筑摩書房)というものです。

 伊藤さんはこの詩は、「畠山八之助をモデルにうたっているのではないかととも受けとっている」との示唆をしています。なぜならば、畠山さんは、「はやくに妻を亡くし、娘と二人だけで小さな小屋を借りて住んでいた」方だったからです。

 この伊藤さんの示唆に刺激を受けてさらに論を進めてみると、同じく伊藤さんが紹介している畠山さんの娘自慢の話に興味を惹かれます。伊藤さんが紹介しているその自慢話とは、「アカ貧乏(赤貧のこと)なため、折角受かった女学校にも入れてやれず、可哀想な娘っしゃ(です)。でも俺にとっては金のべごっこ(牛)みたいに大事な一人娘でがんす」というものです。

 この自慢話に、宮沢さんは、「そんな境遇にも負けないで、素直に育っておられますね」と応じたと伊藤さんは紹介しています。そのとき、宮沢さんは自分と畠山さんの生きざまを比較したのではないでしょうか。

 妻がなく家もないことは両者に共通しています。しかし、畠山さんには娘さんがおり、畠山さんは男手一つで娘さんを宮沢さんの言葉を借りれば「素直に」育てています。誰か特定の個人を、個別具体的に大切に思い、その生活を支えるために働くことができている畠山さんの生きざまを宮沢さんは価値あるすばらしいものと認識したように思います。

 畠山さんのそうした生きざまと比べると、自分は誰か個別具体的な特定の個人を支えるために働いたという経験をもっていないことに気づいたのではないでしょうか。家族との関係でも、とくに経済的と身体的な事柄に関しては、常に世話を受ける関係でした。そんな自分のそれまでの生きざまを、宮沢さんは上述の詩の中で、「たゞなるむくろ」と表現しています。

 宮沢さんは、自分も畠山父娘さんたちに恥じない生き方をしたいと、せめて畠山父娘さんたちを含む東北砕石工場で働く人たちのために石灰肥料のセールスに頑張ろうとしているが、けわしいこの世の中で思うようにいかないという心境を書き留めたのでしょう。同時に、あらためて家族の大切さとそれが人を幸せにすることの意義を実感してもいたように思います。

 家族の大切さとそれが人を幸せにすることのあらためての認識に至るもう一つの道は、自分の病の原因を仏法の因果関係論、すなわち因果応報の視点で追及するというものでした。1932年6月22日日付の中舘式左衛門さん宛の手紙(下書)の中に次のような一文があります。それは、

 「小生の病悩は肉体的には遺伝になき労働をなしたることにもより候」、また「諸方の神託等によれば先祖の意志と正反対のことをなし、父母に弓を引きたる為との事尤もと存じ候」というものです。

 これらの文面によれば、宮沢さんの家族は宮沢さんの病気からの回復を願ってさまざまな試みをしており、その中に神託に頼るという方法も試みていることが分かります。しかし、宮沢さん自身は、それらを頭から無条件に信じているものではないこともこの手紙の下書きには示されています。

 上記の引用文につづいて、前者の引用文には、「候へども矢張亡妹同様内容弱きに御座候」という文言が、そして後者の引用文には、「然れども再び健康を得ば父母の許しのもとに家を離れたくと存じ居り候」という文言が記されています。

 また、そうした信託などを当時の新宗教群生の状況を踏まえて宮沢さん自身は警戒していることをも書き添えています。すなわち、「昨年満州事変以来東北地方殊に青森県より宮城県に亘りて憑霊現象に属すると思はるゝ新迷信宗教の名を以て旗を挙げたるもの枚挙に暇なき由」注意を要するのではないかととらえているのですと。それは、遠野物語語り部である佐々木喜善さんからのアドバイスであることも記されています。

 しかし、他方では、この時期にもとくに父母に尽くしてもらいながら自分が何事をもお返しできてこなかったことに忸怩たる気持ちでいたこともさまざまな言動から推察できるかと思います。同年同月のものと推測されている宛先不明の手紙の下書の中で、「からだが丈夫になって親どもの云ふ通りも一度何でも働けるなら、下らない詩も世間への見栄も、何もかもみんな捨てゝもいゝと」まで言い放っていました。

 『イーハトーブ温泉学』の著者である岡村民夫さんはここで論じている点に関して「雨ニモマケズ手帳」に着目しています。岡村さんによれば、その手帳は、「特異な闘病記」であり、それを見ると、「仏教徒賢治が結核の再発を偶然的災厄ではなく、あくまで精神的、霊的意義をもつ現象として受けとめている(受けとめようとしている)」ことが分かるというのです。

 さらに岡村さんは、「『雨ニモマケズ手帳』には、賢治の奥深いところに潜んでいる山岳信仰ないし修験者的メンタリティが心身の極限状況のなか、剝き出しのままぬっと顔を出している」ことも指摘しています。

 そして、その手帳のかの有名な雨ニモマケズという文章が書かれている8頁前の頁から今後どのように生活していったらよいかに関して次のように書きつけています。それは、

 「厳に/日課を定め/法を先とし/父母を次とし/近縁を三とし/(社会)農村を/最后の目標として/只猛進せよ」(『新修宮沢賢治全集第十五巻』)という文章です。

 この文章には、この時期いかに宮沢さんが自分を育み、支えてきてくれたものにたいして恩返しをすることを熱望していたかが示されていると言えるのではないでしょうか。そしてその熱望がかなっていくことこそが「ほんとうの幸せ」につながるとの思いももつようになっていたのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン