シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(6)

 ところで、宮沢さんの、自分は塔を建てる者であるとの矜持はどこから出てくるものなのでしょうか。結論から言えば、この世における「釈尊常在」の『法華経』の教えではないかと推測します。釈尊さんが存在するところ、それは極楽浄土なのです。それは、宮沢さんがブッダさんと同じように成仏することができるならば、宮沢さんがいるところ、すなわち極楽浄土となります。

 そのためには、宮沢さんが生き仏とならなければならないのですが、果たしてそのようなことは、理論上だけでも、可能なことなのでしょうか。そのようなことを考えていたら、岩鼻通明さんの『出羽三山 山岳信仰の歴史を歩く』(岩波新書1681)という本にであったのです。それは、出羽三山山岳信仰の歴史を辿った本です。

 この本を読み進めて行く中で、第五章「湯殿山即身仏――『一世行人』の足跡をたずねて――」の論述内容に目がとまったのです。それまで、即身仏とは、自分の修行の証として、または自分の修行僧の栄誉として、いかに自分は立派な修行僧であったかを世に知らしむために行うものと考えていました。ところが、岩鼻さんの本と出合ったことで、即身仏とはそのような自己名誉のための行為ではなく、「代受苦(だいじゅく)」のための行為だと分かったのです。岩鼻さんは叙述しています、

 「出羽三山における即身仏とは、湯殿山の仙人沢で、『一世行人(いっせいぎょうにん)』と呼ばれる宗教者が、人々の苦しみや悩みを一身に受けとめる『代受苦(だいじゅく)』という考えのもと、木食行(もくじきぎょう)と呼ばれる厳しい穀断(こくだ)ちの修行を続けたのちに、生きたまま入棺して念仏を唱えながら成仏したものをいう」のですと。

 さらに、岩鼻さんによれば、近世を通じて「よく知られていた即身仏があった。それは越後国寺泊(てらどまり)の弘智法印(こうちほういん)の即身仏であり」、俳人曽良さんや江戸の旅行家であった菅江真澄さんなどもその即身仏を拝観していたといいます。菅江さんは、弘智法印さんの即身仏のことを、彼の紀行文中において、「生菩薩」と記していたといいます。

 同じく岩鼻さんによれば、山岳信仰においては、「近代以前において信者の崇敬をより集めていたのは、宗教活動を展開していた生身の宗教者としての一世行人」さんまたは弘智法印さんたちであったのです。それが、明治の神仏分離政策によって近代以降に即身仏信仰が再び崇拝されるようになってきたのです。

 岩鼻さんは、即身仏に関する松本昭さんの研究を紹介し、現在日本各地に十六体の即身仏があること、「十三体が東北地方および新潟県に存在し、なかでも、庄内地方には六体の即身仏が残ることが知られている」ことを紹介しています。

 ではそうした即身仏信仰が、宮沢さんがめざした仏教の教えとどのように関係するのでしょうか。この点に関しては、これも岩鼻さんが自著の中で紹介しているのですが、佐藤弘夫さんの次のような研究が参考になりといいます。すなわち、岩鼻さんの紹介によれば、佐藤さんは、即身仏信仰は現世利益的であり、「即身仏はそれ自体の聖性は有していても、その背後に彼岸世界をもたない」ことを、そして「それは、中世的な浄土信仰の拠点から近世的な現世利益の祈祷寺へという、本質レベルでの霊場の性格の変容」が起こったことを指摘していたのです。しかも、岩鼻さんは、その佐藤さんの指摘に関して、「その変容はむしろ明治以降のことではなかろうか」とコメントしています。

 もしその岩鼻さんの山岳信仰の歴史に関する指摘が事実的なものであったとしたならば、まさしく宮沢さんが、自分が悟りを開き成仏することによって、自分の郷土岩手の地に極楽浄土を建設するという大望を抱くということあっても不思議ではないと感じます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン