シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんの仏国土建設の道

 宮沢さんは、新文明建設者としてふさわしい自分になるための自己研鑽に励むとともに、実際にこの娑婆世界に極楽浄土の仏国土を建設するための活動にも踏み出します。その第一歩が、国柱会へ入会し、その一員として仏国土建設に邁進することでした。しかし、それは、現実にはその教えはあるものの、仏国土建設への活動がないことに失望し国柱会での活動から身を引くことになります。

 そこで次に、宮沢さんは自分が得意とすること、自分が意欲をもって取り組めることによって仏国土建設へ向けた貢献をしていくことをめざすことになります。それが、演劇を上演し、童話を創作していく芸術・文化的な活動だったのです。

 これまでも何度か言及してきたのですが、いかにより多くの人々に「真の生き方」に気づいてもらうことができるのかが仏国土建設の鍵となるのです。宮沢さんは、その生涯を振り返ってみると、より多くの人々に自分たちの生き方に向き合い、意識化し、「真の生き方」に気づいてもらうための努力を積み重ねてきたと言えるのではないでしょうか。

 そのための方法として、宮沢さんは、童話を創作するなどして、無主義で、ご都合主義的な道徳によって生きている生き方を正し、「真の生き方」を示そうとしたのではないかと思います。さらに、造園などを通して現世における極楽浄土の世界とはどのようなものとなるのかを示そうともしたのではないかと考えられるのです。

 しかも、宮沢さんは、現実に苦しんでいる人々を救済する活動にも踏み込んでいきました。それは、自分の命をかけての冷害などの自然災害との闘いであり、借金づけになっている郷土岩手の地域経済を救うための(東北砕石工場のセールスマンとなっての)経済活動だったのではないかと思われるのです。

 ではそうした仏国土建設の活動の中で宮沢さんが発信しつづけたメッセージとは何だったのでしょうか。それは、自然環境をも含めこの世のすべての存在には仏性という精神性が宿っているということ、その精神性の花を咲かせ、現実のものにすることによってこの世に極楽浄土を建設することができるということ、そのためには、この世に生を受けたすべてのものが明るく、楽しく、そして美しく生きていけるようにならなければならないということではなかったかと感じます。

 そうした仏国土建設の道を歩んでいったことで、徐々に宮沢さん自身も、修羅であった存在から成仏していく存在へと変化していったのです。それは自分が救済しようとしてきた岩手県社会の人々にたいする見方の変化となって現れていました。それらの人々に対しては、かつては何かにつけて怒りと批判の対象になっていました。しかし、徐々にではありますが、厳しい経済的状況や気候変動的状況の中でも自分たちの叡智とわざによって生きつづけるための道を切り開き、踏み固めていた姿に目と関心が向いていくことができるようになっていったのではないかと感じます。

 それは、社会学の関心で見ると、仏国土建設の道を歩むことによる宮沢さん自身の自己形成・確立の過程として捉えることができるように思えます。同時に、そのような社会づくりと社会づくりにかかわりつづけることによる自己形成という関係性を探究していくことは、社会学にとって興味あるテーマであるように感じます。

 宮沢さんの場合、仏国土建設という社会づくりの原点に、つねに、人が明るく生き生きと生きている、さらに幸せに生きている姿を見ることが、自分にとって一番の喜びであり、幸せであるとの心情があったのではないかと思います。そして、そのことが、これまでさまざまに論じられてきた宮沢さんの生きざまとそこから生まれる数々の文学作品を生んできた土台だったのではないかと感じます。

 宮沢さんの自己形成の軌跡が、修羅からデクノボーへ、そして教え導く者から寄り添い、共感することで支える者へという自己形成の軌跡を描くことになった原点でもあったのではないかと考えます。

 そのことで、社会的に孤立し、孤独な存在者としての宮沢さんはどのように変化していったと見ることができるのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン