シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

農学校最後の二年の教師生活の意義とは(1)

 宮沢さんの農学校教師生活における、とくに最後の二年間の生活は、宮沢さんの仏国土建設の夢の実現のためにどのような意義をもっていたと考えたらよいのでしょうか。そのことを推測していくために、まず『春と修羅』第二集の序の記述を参照したいと思います。序の記述は次のようなものでした。少々長くなるのですが、重要と思われますので、始めの部分の考察を進めるために必要な相当分を引用しておきたいと思います。

 「この一巻は/わたくしが岩手県花巻の/農学校につとめて居りました四年のうちの/終りの二年の手記から集めたものでございます/この四ヶ年はわたくしにとって/じつに愉快な明るいものでありました/先輩たち無意識なサラリーマンスユニオンが/近代文明の勃興以来/或ひは多少ペテンもあったではありませうが/とにかく巨きな効果を示し/絶えざる努力と結束で/獲得しましたその結果/わたくしは毎日わづか二時間乃至四時間のあかるい授業と/二時間ぐらゐの軽い実習をもって/わたくしにとっては相当の量の俸給を保証されて居りまして/近距離の汽車にも自由に乗れ/ゴム靴や荒い縞のシャツなども可成に自由に選択し/すきな子供らにはごちそうもやれる/さういう安固な待遇を得て居りました」

 この『春と修羅』第二集における序文には、農学校の教師時代に自らの夢である仏国土建設に向け自分が何をしなければならないかということに関する具体的イメージを宮沢さんが膨らましていったことが示されているのではないでしょうか。

 宮沢さんは四年間の教師生活をおくる中で、仏国土建設のためには、ひとつには「サラリーマンスユニオン」のような運動によって働くものがゆとりをもって暮らせるようにする社会・政治体制的条件づくりが必要だと感じるようになっていったのではないかと思います。同時に、ふたつ目には、そうした社会的条件の下で、楽しく、喜びに満ちた明るい生活をおくるためにはどのような活動をしたらよいのかについてイメージづくりが進んでいっていたのではないでしょうか。

 前者のことに関しては、「詩ノート」の中に、「生徒諸君に寄せる」というおそらく農学校教師退職時の生徒たちに呼びかけた作品があります。その中で、宮沢さんは、生徒たちに、「新たな時代のマルクスよ/これらの盲目な衝動から動く世界を/素晴らしく美しい構成に変へよ」と檄をとばしています。

 後者のことに関しては、前者のことと関連づけながら、「詩ノート」の1927.3.26付の「[黒つちからたつ]」という作品の中で、「きみたちがみんな労農党になってから/それからほんとうのおれの仕事がはじまるのだ」(『新校本宮澤賢治全集第四巻』)と仏国土建設に関わる自分の役目を表明しています。社会学で言う社会的役割取得が宮沢さんの内面で進んでいることが伺えます。

 すべての人の幸せを願う宮沢さんにとっては、前者についての仕事は自分の役割ではないと宮沢さんは考えていたのではないかと思います。それにも拘わらず宮沢さんがある意味で社会体制変革的な主張をしようとしたのはなぜなのでしょうか。

 それは宮沢さんの善悪に関する価値判断の基準が宇宙意志に適うかどうかというもので、しかもその宇宙意志の大きな歴史的流れがどのように動いていくのかということを認識することが重要であると考えていたからではないかと思います。

 この点に関しても、宮沢さんはやはりトルストイさんの歴史変化の認識から影響を受けていたのではないかと思います。トルストイさんは「宗教論文」の中で、この点に関して次のような議論を展開していました。

 「国民に対する政府の権力は、もはやとうから力の上に保持されているのではない」のです。「政府の権力は今や、もうずっと前から、世論と名づけられているものの上にのみ保持されているので」すと。

 そしてその「世論なるものは、今も数十年前も同じように不動なものと見えるかもしれないし、またある場合にはあたかも後戻りするかのように動揺するようにも見える」かもしれません。

 しかし、世論というものは、「つねに動き、人類が前進する同じその道をつねに後退することなく前進するものであり、ちょうどそれは、たとえ停滞や動揺があっても、一日や春が太陽の運行するのと同じ軌道を後退することなしに前進しているのとまったく同じであることにわれわれは気づくはず」(中村白葉訳『トルストイ全集15 宗教論(下)』)なのです。

 こうしたトルストイさんの世論の歴史的進行に関する認識は、無常という考え方を自分のものとしている宮沢さんにもすんなりと受け入れられるものだったのではないでしょうか。しかも、宮沢さんの歴史認識の視野は、単なる世論と国家権力との関係における進化史という超短期のものではなく、地球自然史の、専ら現代社会のあり方に関わり、過去に遡ってもせいぜい近代どまりという社会学者の目から見れば、気の遠くなるような長い時間スパンの進化史を踏まえようとしているのです。『春と修羅』(第一集)の序文には、

 「けれどもこれら新世代沖積世の/巨大に明るい時間の集積のなかで/正しくうつされた筈(はず)のこれらのことばが/わづかその一点にも均(ひと)しい明暗のうちに/(あるひは修羅(しゆら)の十億年)/すでにはやくもその組立や質を変じ/しかもわたくしも印刷者も/それを変らないとして感ずることは/傾向としてはあり得ます」

 しかし、「記録や歴史、あるひは地史といふものも/それのいろいろの論料(データ)といっしょに/(因果の時空的制約のもとに)/われわれがかんじてゐるのに過ぎません/おそらくこれから二千年もたったころは/それ相当のちがった地質学が流用され/相当した証拠もまた次々過去から現出」することになるでしょうとあります。

 季節の移り変わりと自然に関する心象風景の変化に関する表現も、宮沢さんの自然に関するいわゆる「詩」の特徴なのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン