シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

農学校最後の二年の教師生活の意義とは(2)

 ところで宮沢さんは宮沢さんが生きていた時代の社会の動きをどのように見ていたのでしょうか。トルストイさんの影響を受け、他の人の労働に寄生して生きている人たちが嫌悪され、打倒され、自らの労働によって生き、生活している人たちが主人公となる社会が到来することになると考えていたのではないかと思います。それは、自分自身の生活のあり様をも否定することになる見方なのでした。

 「詩ノート」に「[労働を忌避するこの人たちが]」という作品があります。その作品は主張します、

 「労働を忌避するこの人たちが

  またその人たちの系統が

  精神病としてさげすまれ

  ライ病のやうに恐れられるその時代が

  崩れる光の塵といっしょにたうたう来たのだ」

 宮沢さんは、自分だけでなく、自分の家族の行く末を心配しなければならない時代になりつつあるとの感じをもっていたのだなと思えます。

 一方で、宮沢さんは、自分の教え子たちにはそうした時代どのように生きて行けばよいかについて、「生徒諸君に寄せる」と題する作品で、次のように呼びかけていたのです。

 「諸君はこの颯爽(さつそう)たる

  諸君の未来圏から吹いて来る

  透明な清潔な風を感じないのか」

 「それは一つの送られた光線であり

  決せられた南の風である

  諸君はその時代に強ひられ率ゐられて

  奴隷のやうに忍従することを欲するか

  むしろ諸君よ更(さら)にあらたな正しい時代をつくれ

  宇宙は絶えずわれらに依って変化する」のですと。

 宇宙変化の兆しを感じ、「あらたな正しい時代」を「つくる」ために生きよと呼びかけています。宇宙意志、すなわち宇宙の真理と法則は、それらの変化を感じ取って活動する人を生み出すことで絶えず現実化していくものであるとの宮沢さんの認識は、まさしく時代と社会変動に関する社会科学的なものの見方・考え方そのものではなかったかと思います。しかし、そのことで宮沢さんが社会主義的政治思想に接近していたと言いてよいかどうかとなると、判断が分かれるのではないでしょうか。

 あくまで宮沢さんは社会体制変革の仕事は自分の役割ではなく、社会体制的条件が生まれた後、楽しく、喜びに満ち、明るい生活を建設することが自分の役割であると自認していたのではないかと思います。そのために必要な経験を積むことができていたのも、また農学校の教師時代だったのです。

 とくに自分の仕事によってお金を稼ぎつつ豊かな他者との交流・交友関係をもつことができたのは、宮沢さんの人生上これほど恵まれた体験ができた時代は他にはなかったのではないでしょうか。教師仲間・同僚との交友、そして授業や演劇活動を通した生徒たちとの交流は、宮沢さんの心を温め、うきうきさせてくれるものがあったように思えます。

 『宮澤賢治 あるサラリーマンの生と死』の著者である佐藤竜一さんはそれらの経済生活や交友・交流の様子を以下のように描写しています。

 「月給の多くは生活を楽しむことに費やされた。近くにある花巻女学校の音楽教師、藤原嘉藤治(かとうじ)との交流が活発になるのは、この頃である。一緒にレコードを聴いたり、音楽の話で盛り上がった」のです。

 また「花巻の楽器店には、外国からの輸入レコードが入りはじめていた。賢治は新譜が入荷するたびにレコードを注文して、何度も繰り返して聞いた」のです。

 そうして「音楽に夢中になった賢治は『花巻農学校精神歌』『応援歌』などをつくったり、生徒にコミックオペレッタを上演させたりもしている」のです。

 「その一方で、精力的に詩をつくり、生徒を引き連れてイギリス海岸や岩手山に出かけてみたり、まさに充実した教師生活を送った」のですと。

 宮沢さんの独身貴族的生活を満喫している姿が目に浮かぶようです。しかもそうした生活経験こそが、後の活動の準備となっていたと言えるのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン