シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

科学と宗教と直観と

 現在私たちが生きている社会の中で生起している数々の出来事において、社会学的に見て関心を惹く出来事の一つは、ロシアによるウクライナ侵攻と、そこで繰り広げられているとても人間の心をもったものとは思えない蛮行の嵐が吹き荒れている姿なのではないでしょうか。

 その出来事は、社会学の目で見るとき、社会体制のあり方と、人の心、すなわち人の意識や感情との関係性をどのように捉えたらよいのかという問題をあらためて提起しているのです。

 社会学だけでなく、社会科学的視点では、その関係性については、これまで基本的には社会体制のあり方がその構成員である人の意識や感情を規定するというように捉えることが当たり前のこととされてきました。しかし、ロシアによるウクライナ侵攻と蛮行の激発はその視点を単純に適用することを戒める出来事となっているのではないでしょうか。

 ロシアによるウクライナ侵攻という出来事を直視するならば、少なくとも現在地球上に存在している社会主義社会は、そこに暮らす人々の心を人間味豊かなものとして育んではいないと言えるのではないでしょうか。むしろ最悪の形での専制君主国家的な性格の国家社会になっていると言えます。

 すなわち、国家の外に向かって自国の領土や利益を拡大することだけを優先する蛮行を働いているだけでなく、国内的にもただ一人の支配者の思惑と利益だけを優先する蛮性的抑圧が横行しているのではないかと感じます。

 しかも、それらの性格は、ロシアだけでなく、中国や北朝鮮という他の社会主義国にも当てはまっていると言わなければならない状況となっているように思います。問題はなぜそうした国家体制が、ロシアだけでなく、その他の社会主義国と呼ばれている国々にも共通して生みだされているかということです。

 社会学では、そうした問題を考察する場合、社会・国家体制、精神的・文化的風土、そして個々人の意識や感情という三つの社会を構成する要素のトリアーデ的相互関係論という視点をもちいて分析していくことになります。とくにそれぞれの社会における精神的・文化的風土のあり方に注目することが重要となるでしょう。

 ここではその視点を論じることが目的ではなく、宮沢さんには仏国土建設を自分の生涯の使命とするようになった当初から、実はそうした視点を、しかも直観的に自分のものとしていたのではないかということを考えてみたいのです。

 宮沢さんの詩の中に、「〔黒つちからたつ〕」という作品があります。その中で宮沢さんは、「黒つちからたつ/あたたかな春の湯気が/うす陽と雨とを縫ってのぼる」、「きみたちがみんな労農党になってから/それからほんとうのおれの仕事がはじまるのだ」(作品1016)と宣言しています。

 宮沢さんの「仕事」とは、仏国土建設のことでしょう。そしてその「仕事」の内容が、この作品の中では、「あたたかな春の湯気」と表現されているのではないでしょうか。そうだとすれば、「きみたちがみんな労農党」になるというのは、その「春の湯気」を沸き立たせている「黒つち」ではないかと推測できるのです。

 では、「黒つち」とは政治制度をはじめとする社会体制という視点で見るとどのような社会体制のことを表現していると考えられるのでしょうか。その問いへの回答は、『【新】校本宮澤賢治全集第四巻』にある「〔『詩ノート』付録〕」「〔生徒諸君〕に寄せる」の中にあります。

 すなわち、宮沢さんは「生徒諸君」に次のような呼びかけを行っているのです。すなわち、「諸君はこの時代に強ひられて率ひられて/奴隷のやうに忍従することを欲するか/むしろ諸君よ 更にあらたな正しい時代をつくれ/宇宙は絶えずわれわれに依って変化する/潮汐や風、/あらゆる自然の用ひ尽すことから一足進んで/諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ」とです。

 さらに、「新たな自然」とは何かについて次のように生徒諸君に呼びかけます。すなわち、「新たな詩人よ/嵐から雲から光から/新たな透明なエネルギーを得て/人と地球にとるべき形を暗示せよ」。「新たな時代のマルクスよ/これらの盲目的な衝動から動く世界を/素晴らしく美しい構成に変へよ」。「諸君はこの颯爽たる/諸君の未来圏から吹いて来る/透明な清潔な風を感じないか」とです。

 この生徒諸君の呼びかけによれば、「黒つち」とは、「新たな自然」すなわち、「素晴らしく美しい構成」をしている社会体制のことだったのではないでしょうか。生徒諸君が創造するその「黒つち」に、自分が仕事とする「あたたかな春の陽気」を吹き込むことで、人々ひとり一人が健康に芽吹き、そして仏国土がこの娑婆世界に生まれると、宮沢さんは構想していたものと考えます。

 すなわち、宮沢さんにとって、科学・宗教・直観のトリアーデ関係とは、新たな社会体制を意味する「黒つち」、「あたたかな春の陽気」、そして健康な個々人が芽吹くこの世における極楽浄土という関係性を表すものだったのではないでしょうか。

 現在の社会主義国家には、まさしく宮沢さんのように「あたたかな春の陽気」を創りだす仕事をする人がおらず、結果として専制的・人権抑圧的、拡張主義的個人とそれを崇拝する不健康な諸個人を生みだしてしまったのではないでしょうか。土も「黒つち」ではなく、不毛の土となってしまっていたのでしょう。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン