シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

人間感情の成熟と歴史進歩

 ロバート・オウェンさんや宮沢さんのような「愛や博愛」に基礎をおいた労働者や百姓の人たちへの働きかけの試みを「歴史進歩」との関りでどのように位置づけることができるのでしょうか。くりかえしになりますが、エンゲルスさんのそうした試みに対する批判をエンゲルスさん自身のことばで再度確認しておきたいと思います。

 エンゲルスさんは言います。「なるほど彼らはなぜ労働者がブルジョアジーに憤慨しているということを理解しているが、なんといっても労働者をさらにみちびいていく唯一の手段であるこの憤慨を無益なものと見なして、イングランドの現状にとってはるかに実りのない博愛と普遍的な愛を説いている。彼らは心理的な発展、およそ過去とはなんの結びつきもない抽象的な人間の発展しかみとめない」とです。

 このエンゲルスさんの主張を要約すると、「愛と博愛」は「心理的な発展」であり、それは、「過去とはなんの結びつきもない抽象的な人間の発展」でしかない、すなわち何ら「歴史進歩」とは関係ないものであるということになるでしょうか。

 しかし、このエンゲルスさんの議論は間違っていると言わなければならないでしょう。なぜならば、「愛や博愛」という人間感情は、命の尊さや人権意識に関する社会意識どうよう過去の人間の精神生活と深いつながりがあると考えられるからです。

 社会学は人間の感性や感情に関しても、それらは単に個人的なものではなく、社会的・集合的な感性や感情、そして意識として捉えます。そしてそれら社会的・集合的な感性や感情、そして意識は時代や社会のあり方によって独自性をもち、絶えず変化しつづけていると考えます。

 こうした社会学の視点から言えば、「愛や博愛」が「過去とはなんの結びつきもない抽象的な人間の発展」だという主張こそ、「抽象的な」議論だと断じざるをえないでしょう。ここではその議論には踏み込みませんが、そのことは実はエンゲルスさんは百も承知だったのではないかと考えます。それにもかかわらず、エンゲルスさんはなぜ「愛や博愛」にもとづくオウェンさんや宮沢さんのような試みを批判するのでしょうか。

 これも繰り返しの議論となるのですが、それは、エンゲルスさんは当面なによりも既成のブルジョアジーの政治支配体制を打倒することを優先して考えていたからではないかと思います。すなわち、オウェンさんや宮沢さんの試みはエンゲルスさんの目には、既存のブルジョアジーによる政治支配体制への批判や打倒を呼びかけることなくむしろ容認していると捉えられ、そうした意味で現状肯定的な、歴史進歩を信じない試みであると映ったのではないかと思います。

 そのことに関わって、エンゲルスさんが重視した人間性とは、ブルジョアジーへの抵抗とその支配体制に対する現状変革行動のことでした。エンゲルスさんは言います。

 「いったいなぜ労働者はストライキをおこなうのか、と問われよう。単純明瞭である。労働者は賃金の引きさげ、さらにはこのような引きさげの必然性にたいしてさえも、抵抗しなければならないからである。自分たちが状況に順応するのではなく、状況が自分たち人間にあわせなければならないことを、労働者は人間として宣言しなければならない」(下線による強調は引用者によります。)のですと。

 ここでもエンゲルスさんは、「状況が自分たち人間にあわせなければならないことを」既存の政治的支配体制の転覆にだけ結びつけて論じています。しかし、オウェンさんや宮沢さんの試みも、「状況が自分たち人間にあわせなければならないことを」宣言している試みだったのではないでしょうか。

 しかも、1917年のロシア革命以降に実現した社会主義国と呼ばれている国々の現状を見ていると、まさしくそれらの国々において「状況が自分たち人間にあわせなければならないことを」宣言する新たな政治革命が必要になっているように感じます。

 少数の人間による大多数の同じ人間に対する搾取と政治支配という社会状況はどうしたら変革することができるのか、現在の社会主義国と呼ばれている国々においてもなお鋭く問われているように感じます。現下のグローバル社会においてそれぞれの社会を構成する大多数の構成員、すなわち国民自身が主人公となって自分たちの社会を共同して運営する社会を実現する道筋を探究していかなければならないでしょう。それは社会学にも課せられている課題なのです。

 その課題に照らすとき、オウェンさんや宮沢さんの試みは、エンゲルスさんのように切り捨てるのではなく、新たな輝きを放つことのできる試みであったとの再評価をしなければならないものとして立ち現れてくるでしょう。

 現代の社会主義国と呼ばれている国々の歴史を参照する限り、ブルジョアジー階級による政治的支配体制を倒すだけで、その後自動的に国民自身が主人公となる新たな社会建設が進行していくというようにはならないことだけは確かだと言えます。

 社会の大多数の人たち自身による社会の運営があたりまえとなるような社会の実現のためには、それなりの社会的・集合的な歴史的経験の積み重ねと習熟が不可欠な要件となっているのではないでしょうか。そしてその経験と習熟には新たな社会の創造と運営を可能とする人間感情の社会的・集合的経験と習熟も必須の要件ではないでしょうか。

 そして、その過程においては、誰がどのような社会をどのような形で創造していったらよいのかについての思考実験も必要なのでしょう。オウェンさんや宮沢さんの試みはそうしたポスト資本主義社会となる新たな社会建設のためのこれからもあまた生じることになると考えられるさまざまな試みの中の口火をきった試みとして評価されなければならないように感じます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン