シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

人間的感情と歴史進歩

 これまでエンゲルスさんの「イギリスにおける労働者階級の状態」を少し回数を重ねて読んできました。その際の思いは、エンゲルスさんはなぜ、ロバート・オウェンさんの試みを、そしてそれは宮沢さんの生涯をかけた試みに通じるものなのですが、受け入れることができないような議論をしているのだろうかというものでした。

 自分が生きている同時代の人たちの中に、とても酷い状態に陥っている人たちがいることに対する(愛や博愛ということばで表現できるものではないかと考えられる)共通する思があったにもかかわらずです。そのところをもう一度確認しておくことにしたいと思います。

 とくに宮沢さんの作品である「ポラーノの広場」におけるファゼーロさんたちの産業組合づくりの試みをエンゲルスさんの言う「歴史進歩」との関係でどのように位置づけることができるのかという点に着目してみたいと思います。

 なぜならばエンゲルスさんは、愛や博愛にもとづくロバート・オウェンさんのような試みは心理的な発展をめざしているもので、それは歴史進歩というものを信じていない現状肯定的試みであるという批判を行っていたからです。

 その批判の意味を、労働者階級の置かれた「状態」(以下「状態」と記述することにします。)、既存の社会秩序の政治的「変革行動」(以下「変革行動」と記述します。)、そして新たな社会秩序の創造という「歴史進歩」(以下「歴史進歩」と記述します。)という三つの社会づくりの要素の関連理解の仕方から考えてみたいと思います。

 エンゲルスさんによれば、当時のイギリスにおける労働者階級の人たちの陥ってしまった生活状態とは、動物的なものであるというものでした。それは同じくエンゲルスさんによれば、とても人間生活とは呼べないようなものであったのです。

 そしてそうした動物的生活状態から抜け出すには、これもエンゲルスさんによれば、ブルジョアジーにたいする憎悪と憤激とをもっていなければ、労働者は自分たちの人間性を救い出すことができないことを証明する」ものだったのです。

 さらにエンゲルスさんは次のようにも主張していました。すなわち、「労働者には自分たちの生活状態全体に抵抗する以外には、人間性を働かせる場が一つとして残されていない」(下線による強調は引用者によるものです。)のですと。

 この一文を読んで感じたことは、エンゲルスさんが生きていた時代の労働者階級の人たちが陥ってしまっていた生活状態というのが、いかに残酷で、ひどいものだったか、想像力の乏しい自分には到底思い及ばないほどのものだったのではないだろうかということです。すなわち、そのために、労働者階級の人たちには、憎悪と憤激によるブルジョアジー対する政治的闘いだけにしか「人間性を働かせる場」がなくなってしまっていたというのですから。

 またエンゲルスさんには、労働者階級の人たちを動物的生活にまで陥らせている根本問題を解決することなしに、すなわち「自由競争」という社会秩序を変革することをしないまま、労働者階級の人たちに「夢」のような生活を与えようとする試みは何らの解決にもならないと見ていたのです。

 エンゲルスさんのことばによれば、それは現状そのままのなかで共産社会をめざすユートピアでしかないと考えられるものだったのです。いや、それ以上に労働者階級の人たちにとって否定的影響を与えるものであるとさえ見ていたのではないかと思います。すなわち、それらのユートピア的試みは、労働者階級の人たちにブルジョアジー階級に対する社会戦争を放棄させ、ブルジョアジー階級の人たちを喜ばせるだけでしかないと言うのです。

 これらのエンゲルスさんの議論をフォローすることで見えてくることは、エンゲルさんが考えている「歴史進歩」とは、まずなによりもブルジョアジー階級による政治支配体制を打倒することであると捉えていたのではないかと思います。

 そのことで、はじめて、資本主義社会の社会秩序原理である「自由競争」を廃絶し、労働者階級の人たちに対する全般的な福祉を実現する新しい社会建設ができると考えていたように思えます。そのためには、まずは、いかにして労働者階級の人たちをブルジョアジーに対する戦いに政治的に組織化していくのかということを最優先視していたのでしょう。

 しかし、ここまで参照してきたエンゲルスさんの議論を繰り返し読み返しながら、そうした議論を立てようとするエンゲルスさんの気持ちに共鳴しながらも、少し悲しい気持ちになってきます。なぜならば、エンゲルスさんの言う「歴史進歩」とは、人間の有している感情世界との関りで位置づけると、「憎しみと怒り」の感情とだけが主題となっているように感じるからです。

 ロバート・オウェンさんや宮沢さんのような「愛と博愛」という感情に基礎をおいた社会づくりは、資本主義社会という社会の中ではブルジョアジー階級の政治支配に利するだけで、何ら「歴史進歩」に寄与することのないものと断じてしまうだけでいいのでしょうか。それが問題です。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン