シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

怒りと憎しみの感情か、愛と博愛の感情か

 これまでエンゲルスさんと宮沢さんを対比的に両者の言動を参照してきました。思いは共通するところがあるのに、その思いを実現するために歩もうとしていた道は真逆のものでした。どちらが正しく、どちらが間違っているのでしょうか。

 社会学的に言うと、どちらが正しく、どちらが間違っているとかではなく、両者の考え方や言動は、フランスの古典的社会学者であるデュルケムさんの用語を借りて言うと、どちらも「正常」であると言うことになります。

 ここで言う「正常」とは、それらの感情が当該種の生存条件に根差しており、ある一定の条件のもとで因果関係的に生じるものという意味です。そして、それらの感情による個人的、または集合的行動や行為を見ることによって、人々は自分たちがどのような社会で生活しているのか、そしてどのような社会で生活するようになりたいのかを知ることができるのです。

 一般的に、しかも最も抽象的なレベルで言うならば、この世の存在と出来事の中で、不必要で無駄なものは、何一つないのです。すべての存在や出来事は、何らかの必要と意味をもってこの世に生まれ、存在しているのです。

 例えば怒りや憎しみの感情は個人にとっても、社会にとってもあまり好ましいものではないように感じます。しかし、進化心理学によれば、それらの感情は個人にとっても社会にとっても必要性があり、また意味をもつものなのです。

 それらの感情は自分の生命や利益が脅かされることに対する防衛にとってとても重要な働きをするからこそ、長い人類史のなかで維持され残ってきただけでなく、社会生活の中で精錬され、発展しもしてきているというのです。

 ただ怒りや憎しみの感情だけでは個人にとっても社会にとってもそれはとても居心地の悪い環境となってしまいます。そこで愛や博愛の感情が、精神的に落ち着き、穏やかで温かく、居心地のよい環境を提供してくれるのです。

 ここで一つの論点が生じます。それは、資本主義社会の変革にとって重要となるのは「怒りや憎しみ」の感情か、それとも「愛や博愛の感情」かという論点です。これまで見てきたように、当然エンゲルスさんは前者派です。

 後者派に属するのはかなり以前になりますがこれもすでに見てきたようにトルストイさんではないかと考えられます。では宮沢さんはというと、どちらかというとトルストイさんの派にぞくするものと考えられますが、しかしトルストイさんのようにスッキリと割り切って自分の立場とするというのではなかったように感じます。

 宮沢さんは、宮沢さんが生きていた時代の社会状況を変えていくには、「怒り」を基礎とする社会的行動によって既成の政治体制を変えていく必要性を認めていたのではないかと思います。ただそれは自分の「仕事」ではないとはしていましたが。

 実はこうした事柄については、自然の弁証法に関する著述をしたためているエンゲルスさんは百も承知だったのではないかと考えます。それにもかかわらず、エンゲルスさんは「愛や博愛」を基礎とする社会改良の試みを厳しく批判したのでしょうか。社会学的にはそこに興味が向きます。

 結論から言うと、そうした社会改良はプロレタリアートブルジョアジーに対する社会闘争への道を阻害するからという政治的なものだったのではないかと思います。これまで考察してきたことと重なりますが、もう一度その論点を確認しておくことにします。

 それらの論点に関するエンゲルスさんの議論は以下の3つだったのではないかと考えます。第一に、「怒りと憎しみ」だけが労働者階級の人たちをブルジョアジー階級の人たちへ向けての戦いに組織していくための「唯一の手段」と、エンゲルスさんは論じていました。第二には、それらの社会改良は、ブルジョアジー階級が打倒すべき敵であることを見えなくしてしまいます。そして、第三は、エンゲルスさんによれば、それらの社会改良は、労働者階級とブルジョアジー階級の戦いにおいては、むしろブルジョアジー階級の支配体制永続化のための「偽善的」戦略に包摂され、利用されてしまう試みにほかならないのです。

 それらの議論を、くどいようですが、もう一度エンゲルスさんの著述で確認しておくのがよいかもしれません。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン