シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

良寛さんと宮沢賢治さん(5)

 道元さんの教えに衝撃を受けた良寛さんは、どのようにして、道元さんの言う「自己をはこ(運)びて万法を修証する」迷いから脱して、「万法すす(進)みて自己を修証する」悟りの道を見だしたのでしょうか。良寛さんは修行の場であった円通寺を去り修行の旅に出ることでその答えを見つけようとしたのです。阿部さんはその良寛さんの決断を次のように解説しています。すなわち、

 良寛さんは、「円通寺を大寺院に押し上げた宗門に大きく貢献した実力者の大忍国仙と、永平寺住職となって宗門内の出世の道を極めた玄透即中とでは、共に五十歩百歩であり両者とも自らの師として仰ぐべき人物とは思えなかっただろう」とです。そのため、良寛さんは、円通寺を去って行脚僧としての参学・参禅の旅にでるのですが、ひたすら大寺院を回り自分のキャリアアップのための参学・参禅をめざそうとしている他の行脚僧侶たちとは一線を隔する行脚僧、すなわち文字通りの乞食僧としての行脚僧の道を選ぶのです。

 阿部さんによれば、良寛さんは、33歳のときに円通寺を辞し、39歳のときに生まれ故郷である越後に帰るまで、6年間の長きに渡り、乞食僧として諸国をめぐっていたといいます。そして、この行脚修行は非常に厳しいものだったに違いないと阿部さんは推測します。なぜなら、諸国をめぐる行脚修行は禅宗の修行僧にとって一般的なものだったのですが、通常は全国にある宗門内の寺院をめぐるものだったのですが、良寛さんの場合は、「曹洞宗門の寺院を訪れたという記録がまったくない」からなのです。

 そのことの意味することは、もし良寛さんが旅先の托鉢で見知らぬ人たちからの喜捨をえられなければ、容易に死に至ってしまうということなのです。史実としては、良寛さんは6年にも渡る放浪の旅を経て生まれ故郷である越後へと帰還しています。それは、見知らぬ地で、托鉢だけで生活をしていくことに成功していたことを示しています。社会学的には、良寛さんが見知らぬ地で、見知らぬ人たちにどのように接し、どのような関係性を作り上げていたのか、大いに気になるところです。

 この点に関して、阿部さんは次のように言及しています。すなわち、良寛さんは、見知らぬ地において、来る日も来る日も「その日一日飢えないで暮らせるだけの糧(かて)を求め」なければならなかったのです。「それは彼が『本色行脚僧』として何年もの間、行脚に真剣に取り組み、実体験として庶民の間でどう托鉢すべきかを修得して」いったことを示しているのです。乞食僧としての行脚、それが良寛さんの真の「悟り」とは何かを求めての修行の形だったのです。

 阿部さんによれば、良寛さんは、その修行を通して、真の「悟り」とは何かということだけでなく、人を救うとはどのようなことなのかについても、その真の回答を求めて苦悩していたと言います。すなわち、真に人を救うためには仏教徒はどのようにその人と関わったらよいか、良寛さんはその問いの回答を求めて行脚行をしていたと言うのです。

 阿部さんは、そのことを、次のように推測しています。「良寛は禅を学べば学ほど、『法華経』『維摩経』『般若心経』を始めとする大乗経典にも、『正法眼蔵』にも、禅の語録や高僧伝にも、宗門寺院で行われていた引導作法を始めとする葬儀についての説明や言及が全くないことに違和感を感じていたのではなかろうか」とです。

 良寛さんは、後に自分の行脚修行の旅を詠んだ詩の中で、次のような内容を著していたといいます。すなわち、「葬式ばかりに忙しい寺で自分と同じく禅を学ぶ法兄や法弟子たちのために、眉毛が抜け落ちるほど老婆心で教え諭すことは惜しまない」。しかし、その状況は、「もう手遅れ」となってしまっている。そのことが「ただただ慚愧(ざんき)の念に堪えない」とです。

 道元さんは、自著『正法眼蔵』の教えの中で、自らが「悟り」に至ってない「僧侶が俗人の葛藤を裁ち切ることができると考えること自体が、とんでもない思い上がりだと糾弾」していたと、良寛さんは理解していたのです。さらに、道元さんは、「衆生の葛藤の苦しみにも真実があり、その葛藤を自らも背負って苦しみを分かち合い、葛藤によって葛藤を包み込んでしまうことこそが仏教の法脈を嗣ぐことだ、しかしそれを知るものは誰もいない」と諭していたことを良寛さんは真摯に受け止めようとしていたのです。

 良寛さんは、真の「悟り」とは何か、そして苦しむ衆生を救う道とは何か、これら二つの難問に、本物の乞食僧による行脚修行を通してどのような解をえるようになったのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン