シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

良寛さんと宮沢賢治さん(1)

 宮沢さんの人生を理解することは非常に難しいと感じます。なぜそのような行動をとったのか、なぜそのような言動をとり、文章を綴ったのか、そしてその基底にある信仰とはどのようなものであったか、とくに仏教に疎い自分には全く理解不能で、謎となっているもの、ことにあまりにも多く出会います。それでこれまで、それらのものやことを少しでも理解可能としようとして宮沢さんの思いを映し出す鏡としてブッダさんの教えを参照して見てきました。

 それでもなお、宮沢さんの人生・言動・文章には多くの謎が残ってしまいます。今回は、その謎を解き、自分にとって理解可能とするようにするために、宮沢さんの人生を良寛さんの人生と比較・対照してみようと思います。幸いなことに通っている図書館で阿部龍一さんの大著である『評伝 良寛 わけへだてのない世を開く乞食僧』に出会うことができました。この著書の力を借りて宮沢さんの人生の謎解きに挑んでみようと思います。

 まずなによりも、できれば自分だけでも納得する理解をしたいと思いつづけてきたことですが、宮沢さんはなぜ死の直前になって、それまでの、自分の力と働きによって苦しむ衆生を救おうとしてきた人生とは180度違う真逆の人生を歩むことになる「デクノボー」になりたいと思うようになったのかという謎解きをしたいのです。そもそも、デクノボーとは宮沢さんにとって何を意味するものだったのか、そしてどのような心情の変化によってそのようなものになりたいと思うようになったのか、自分なりに納得する回答をえたいと感じます。

 それは、阿部さんの上述の良寛さんの著書を読み進めて行く中で触発された関心事でもあります。その著作には、良寛さんは、地域の人たちの布施によって生活している自分を、役立たずのデクノボーと自認していたと紹介されていました。そのことを知り、なるほどデクノボーにはそうした全くの他者の労働に依拠した生活という意味もあるのだと、感心したのです。宮沢さんがめざしたデクノボーとはどのような意味での存在者だったのか、あらためて関心が湧いた次第です。

 一般的には、良寛さんのイメージは、暮らしていた村の子供たちと遊び惚けたり、地域の人たちと「酒を酌み交わしつつ歓談し、また詩、歌、書を楽しむ乞食僧(こつじきそう)」という、極めて「牧歌的で心安らぐ」人物であったというものでしょう。しかし、阿部さんによれば、そのイメージは良寛さんの人生の一部でしかないのです。阿部さんは言います、

 そうしたイメージの生き方が「良寛の生き方として当たり前のものだったのだと、安易に考えるべきではない。良寛がそこに辿り着くまでには、まさに血のにじむような努力が必要だった」のですと。牧歌的で、心安らぐ乞食僧良寛さんはどのようにして誕生してきたのでしょうか。

 宮沢さんと良寛さんの大きな違いの一つは、宮沢さんが世俗の人として成仏の悟りをめざしたのに対し、良寛さんは、出家し、厳しい修行を積むことで成仏の悟りを探求しようとしたことではないかと思います。その際、良寛さんは、禅宗に属する曹洞宗の修行僧となる道を選びました。それはどのような理由によるものなのでしょうか。

 阿部さんによれば、禅宗の修行僧としての修行を積むことで、「質素であっても人間性豊かな暮らしを営むという理想」を実現するためでした。良寛さんが出家を志した時代は、新たな商工業の発達を見ていた時期で、何でもお金次第の世相となっていた時代だったそうです。地域の名望家層の新旧の交代劇も起こっていたのです。

 そうした時代風潮の中、良寛さんの生家は、旧勢力の名望家であり、長男として生まれた良寛さんが継承者となるころには、没落の道を辿っていたのです。良寛さんにはその立て直しが期待されていたのですが、良寛さんが選んだ人生は、その役割を放棄し、出家するというものでした。

 良寛さんは、「尼瀬の曹洞宗光照寺」に入門し、さらに「備中玉島の円通寺」において本格的な禅僧としての修行生活に入っていったのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン