シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんと自己犠牲

 前回のブログで、木村さんの著書で論じられていたインフルエンザの大流行はカゼを引いても仕事や学校に行かなければならないという社会的空気が漂っているからであるという現在の日本社会の状況を取り上げました。その木村さんの議論をフォローしていく中で、ふと宮沢さんは「自己犠牲」をどのように考えていたのだろうかという問いが襲ってきたのです。

 「自己犠牲」ということばは、これまで宮沢さんの代名詞のように言われ、また宮沢さんの人柄を象徴することばとして論じられてきたように思います。今回出会った本は、谷口正子さんの『仏教とキリスト教の中の『人間』 『歎異抄』・宮澤賢治石牟礼道子ほか』です。そしてこの著書で谷口さんは宮沢さんと自己犠牲の関係を興味深く論じているのです。しかも、キリスト教と仏教に共通する宗教的根底のテーマとして論じているのです。

 谷口さん自身、カトリックを信仰しているのだそうです。その信仰の姿勢は、頑なに自分の宗教的派閥の教えの正統性だけを強調するというものではなく、他の宗教や宗派の教えにも関心をもち、すべての宗教の根底に共通する「人間」を追及しようとするものなのです。事実谷口さんは仏教学についても学んでいるのです。そうであればこそ、宮沢さんの理解を深める絶好の好著ではないかと受け止めました。

 宮沢さんも、仏教とキリスト教の両方の教えに真剣に向き合った人ではないかと思います。ではこの両宗教に共通する「人間」としての基盤とは何なのでしょうか。その問いに対する谷口さんの回答こそ、「自己犠牲」なのです。谷口さんは言います、

 宮沢さんの「作品から宗教的な要素を探っていくとき、二つの最も大きなテーマが浮かび上がる。一つは大乗仏教の大悲の思想、自己犠牲の思想と言ってもよい」のです。「二つ目は、これと密接に結びついた、縁起(依他起性)の思想に根にもつ《共同体》という考え方で」すと。

 さらに谷口さんは「自己犠牲」を宮沢さんのデクノボーへの希求と結びつけ次のように論じています。「《デクノボー》はむしろキリスト」であり、「人間の行為を損得勘定でしか見えない人々にとっては、自分で罪を犯したわけでもないのに、他者のためだけに自分を犠牲にしたキリストはこの上ないデクノボーではないのか」と言うかもしれません。

 しかし、「筆者(谷口さん)は《デクノボー》という言葉を、自嘲でも敗北の表現でもなく、外部から見た場合の蔑視表現」〔( )内は引用者によります。〕であると考えます。そして、「賢治は《それでいい、むしろそれこそ望む》と考えていたのではないかと推察したい」のですと。

 すなわち、宮沢さんは、「その時点で行うべき自己犠牲を理屈抜きで受容できる人、それを《デクノボー》とよんだ」のです。まさしく、「雨ニモマケズ」の詩は、「大悲・愛」の例として挙げ」られると、谷口さんは言います。

 なるほど宮沢さんのデクノボーと呼ばれることへの希求は「自己犠牲」の思想と関連していることをあらためて考えさせられました。ただ次のような疑問も湧いてきたのです。それは、宮沢さんはいつどこでもだれに対するものでも「自己犠牲」というものがすべての人のまことの幸せにつながるものと考えていたのだろうかという疑問です。宮沢さんはそのことに大いに悩んでいたのではないかと感じるのです。

 宮沢さんも生きた近代社会以降の社会はとくにですが、人間社会(人間社会だけでなく生き物の世界)というのは実に多くのさまざまな利害関係が複雑に絡み合い錯綜している世界です。そうした世界の中すべてのもののまことの幸せにつながる「自己犠牲」とはどのようなものなのでしょうか。繰り返しになりますが、宮沢さんにとって、それが大きな問題だったように感じます。自分の命がかかっている場合にはとくにそうだったのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン