シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

すべての人に気にかけ・大切に思い・困ったときに支援の手をさしのべてくれる人がいる世界を願う

 家族や地域社会の人という身近な人に対する菩薩的行為によって、一体「世界全体が幸福」になる世界は実現するものなのだろうかという疑問が湧くかもしれません。そうした疑問に関しては、宮沢さんは、身近な人に対する菩薩的行為を積み重なっていくことが仏国土建設につながる道であると答えることができると気づいたのではないかと推測します。

 そのように推測するのは、宮沢さんが菩薩的行為を行い、まことの生活と幸せを実現しようとする人は自分だけでなく実に多くいるではないかという思いに至ったと考えられるからです。宮沢さんの童話の作品で言えば、「グスコーブドリの伝記」にそのことが示されているのではないでしょうか。

 この作品の最後は次のような文章で締めくくられています。すなわち、「そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪(たきぎ)で楽しく暮らすことができたのでした」とです。ブドリの自己犠牲的行為は、まさに新たなブドリ、しかも沢山のブドリを生むことにつながっていたのです。

 この文章では、社会全体が何らかの危機に直面したときには、自分の身を犠牲にして地域の人々の幸せを実現しようとする英雄が次々と生まれてくることを示唆しています。ドストエフスキーさんの「カラマーゾフの兄弟」の中でも、「長老」が自己の欲望にまみれているカラマーゾフ家族の中でキリスト的生活をおくっているアリョーシャと僧院の僧たちに最後の説教において次のようなことばをかけていました。

 煩悩と欲望が渦巻く「今のような時代には、そういう人たちの中にでも善良な人がありますでな。このような人達のためには、こういうて祈っておやりなされ。『どうぞ神様、誰も祈ってくれ手のないすべての人をお救い下さりませ。また、あなたに祈ることを欲せぬ人々をも、お救い下さりませ。』」と。さらに「長老」は、いい続けます。

 「それから即座にこういいなさるがよい。『神様、わたくしがこのようなお祈りを致しますのは、決して高慢心のためではありませぬ。わたくしは誰よりも一番けがれた人間でござります……』とな。衆生(しゆじょう)を愛さねばなりませぬぞ」とです。

 「長老」が仲間たちに諭そうとしたそのような思いを、宮沢さんもまた「雨ニモマケズ」の書付を行っていたときに共有していたのではないかと考えてしまいます。それは、宮沢さんが直接「カラマーゾフの兄弟」のこの部分を読むことで影響を受けたということではないにしても(清水正さんは宮沢さんの「銀河鉄道の夜」という作品は「カラマーゾフの兄弟」を参考にしているのではないかということを指摘しています。)、法華経の行者たることを志し、羅須地人協会以下の活動を経験し、さらにそのことで病により病床に閉じ込められるなかで次々と湧き上がってくる自己のそれまでの人生の振り返りのなかから自然に湧き上がってきた思いなのでしょう。

 それでも、「誰も祈ってくれ手のないすべての人」を含め、直接関りをもつことができるすべての人の苦悩を自分の死の間際になってもあらためて志そうとする宮沢さんの法華経の行者としての思いのすごさに、圧倒される自分を感じざるをえません。何とすごい人だったのだな、宮沢さんという人は。

 宮沢さんが終生願ったものは、すべての人が幸せに生きることのできる世界であり、自己の死に直面してもなお、気にかけ・大切に思い・困ったときに支援の手をさしのべてくれる人が誰にも存在しているような世界をめざして働きたいと願いつづけていたのです。その宮沢さんの絶筆の短歌とは次のようなものです。

 「病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり

   みのりに棄てればうれしからまし」

 この宮沢さんの最後の歌は、自分が法華経の行者たらんとして身命をかけて生きてきて、自分が仏法のために死に、それまでの自分の活動が地域の稲作・生活のみのりのためになっていてほしいと願った歌であると言われてきたものです。実際、その年の花巻地方の作柄は豊作であったというのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン