シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

エリート意識も潜む若き日の万能感

 二人だけで岩手山に登山し、一切の苦しむ衆生を救うため、「神の国」(保阪さん)・「まことの国」(宮沢さん)を建設することを誓い合ったころから国柱会での活動を経験しているころまでの、二人の、とくに精神的な歩みはどのように特徴づけすることができるでしょうか。ここでは、「エリート意識も潜む万能感」と名づけてみました。

 若いときにはとくに、有能感をもつことは自分の成長にとってとても大切なことではないかと考えます。それは、有能感がある目標に向かっての自己研鑽の努力に結びつくからです。同時に、有能感は自己肯定感という人間存在にとってとても重要な感覚を支えてもくれるのです。

 しかし、そのことを一方的に喜んでばかりはいられないということもあります。なぜならば、有能感や万能感は、一方で容易に他者をばかにし、差別し、排除する気持ちを生んでしまうことがあるからです。それは、苦しむ一切の衆生を救うというある意味崇高な目標を掲げている場合にも起こりえることなのかもしれません。

 宮沢さんと保阪さんの場合はどうだったのでしょうか。少しエリート意識が潜在していたように感じます。『宮沢賢治の青春 〝ただ一人の友〟保阪嘉内をめぐって』の著者である菅原さんによれば、高等農林学校の学寮へ「入寮して一ヵ月、嘉内は『人間のもだえ』と題する原稿用紙九枚の戯曲を書いた」のです。その中で、保阪さんは「全能の神(アグニ)」を、そして宮沢さんは「全智の神(ダークス)」という役を演じることになっています。

 また保阪さんは、自分たちが創設した文芸紙「アザリオ」四号の「打てば響く(小説)」の中で次のような私見を述べています。「人間が自分をいつわる事程悪いことはない。……土塊はいかに多く積もるゝとも土塊だ。人はいかに多く集るとも烏合の集では何にもならない。それ故にある集りに集るごとき人々ならばすべてが仝し方向に向って仝じ考へで、ほんとうに、まじめで、御悧口者でなく、共に進んで行たいもの」ですと。これは同じ方向に進めるのは、自分と宮沢さんの二人だけであると言いたかったのではないでしょうか。

 さらに保阪さんは、「アザリオ」五号の「社会と自分」の中で自分の存在を次のように主張しています。「ほんとうにでっかい力。力。力。おれは皇帝だ。おれは神様だ」と主張しています。

 そうした保阪さんの言動に宮沢さんは次のように応じていたのではないでしょうか。「私共が新文明を建設し得る時は遠くはないでせう……。みんなと一緒でなくても仕方がありません。どうか諸共に私共丈けでも、暫らくの間に静に深く無一の法を得る為に一心に旅をして行かうではありませんか」(1918年3月20日前後の保阪さん宛手紙)と。

 また宮沢さんは保阪さんに、「大聖人御門下になって下さい。一緒に一緒にこの聖業に従ふ事を許され様ではありませんか。憐れな衆生を救はうではありませんか」(1921年中旬の保阪さんへの手紙)と呼びかけていました。宮沢さんは、自分たちはあくまで「憐れな衆生」を救う人であり、そのために「大聖人」によって選ばれるに値する人であると自認していたものと思われるのです。

 宮沢さんは、これ以前から、自分はものの見方、感じ方、そして認識において人とは違った感性を持っていると気づいていたようです。そしてここからは個人的な推測になるのですが、当初そのことを他の人に告げることをためらっていたのではないかと思います。もしかしたらコンプレックスさえ感じていたかもしれません。

 しかし、高等農林学校入学後、とくに保阪さんとの交友の中で、むしろそのことが少なくとも宗教的には自己のすぐれた特性であるとの予感的期待になり、自負にまで高まろうとしていたしていたのではないかと感じるのです。自分はブッタにより選ばれるべき人物ではないかとさえ無意識的に感じていたのかも知れません。

 こうした文脈の視点で法華経を見ると、それは、ある意味、ブッタによるさまざまな菩薩の成仏への約束の「授記」物語であると読めるのです。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン