シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

裏切られた仏国土コミュニティへの期待

 宮沢さんが国柱会の門をたたくに当たってさらに夢見たこと、希望をもっていたこと、そして期待したこととは何だったのでしょうか。それは、国柱会こそが仏国土とはどのような社会(コミュニティ)であるかを、実際に体現し、示してくれるのではないかというものだったのではないかと推測します。

 なぜならば、宮沢さんが震えるほどの感動をおぼえた法華経をはじめとするもろもろの経典には、仏教の教えを信じる人たちが創るコミュニティとはどのようなものかが、種々描かれているからです。法華経の示す世界を文字通り世界的規模で実現することをめざしている国柱会はそれに相応しいコミュニティの姿をしているはずであると、宮沢さんは信じていたのではないでしょうか。

 法華経の「五百弟子受記品」には、「正しい仏の教えを聞けば、人の心は仏心となる。仏心となればお互いに慈しむようになる。すると、この人たちの住む世界は仏国土となる」ということが記されているといいます。

 「この国土の人たちはたいへんに心がりっぱであるから、自然と心が顔の形に現れてくる。三十二相というりっぱな特相をそなえた顔になってくる。……食事が普通の人たちと異なる。すなわち法喜食(ほうきじき)と禅悦食(ぜんねつじき)を食べている。……人間は食物をとらなければ肉体を養うことができないのと同じように、精神の食事となるのがこの二つの食である」とも言われているそうです。

 華厳経には、菩薩たちが住む「歓喜地」について次のように描写されています。「菩薩は歓喜地に住すると、喜び多く、信ずる心豊かに、よく清められ、踊り上がるほど悦びがあり、心がよく調(ととの)えられ、よく堪え忍び、争いを好まず、衆生を悩ますことを好まず、怒ったり恨んだりしない」のです。

 また、歓喜地では、「仏たちの教化(きようげ)の仕方を念ずるので歓喜の心を生じ、衆生のために活動しよう念ずるので歓喜の心が生じ、一切の仏、一切の菩薩が入る智慧と方便の教えを念ずるので歓喜のこころが生ずる」のです。

 社会と個人との関係や社会生活における個人と個人の人間関係の在り方を探究する社会学の目から見ても、本統に上述のような社会(コミュニティ)が実現したら夢のような出来事だなと思います。宮沢さんもそうした夢のようなコミュニティが国柱会にあるのではないかと期待していたのではないかと推測します。

 しかし、上京し国柱会の門を叩いてすぐにその期待は失望へと変わっていったのではないかと思います。1921年1月30日の関徳弥さんへの手紙の中でその失望の気持ちを次のように吐露しています。

「周囲は着物までのんでしまってどてら一つで主人の食客になってゐる人やら沢山の苦学生、辨(ベンゴシの事なさうです)にならうとする男やら大抵は立派な過激派ばかり、主人一人が利害打算の帝国主義者です。後者の如きは主義の点では過激派よりももっと悪い。田中大先生の国家がもし一点でもこんなものならもう七里けっぱい御免を蒙ってしまう所です」と。

 国柱会への奉仕生活の中でそうした実感しかもてないでいたとするならば、心友保阪さんへの折伏も実感をともなった説得力あるものとはならなかったのではないでしょうか。宮沢さんの保阪さん宛の手紙以外には、二人の間にどのようなやり取りがあったのか、具体的にはよくわかっていないようですが、けんか別れのようになってしまったことは確かなようです。

 このことに関しては、『宮沢賢治の青春 〝ただ一人の友〟保阪嘉内をめぐって』の著者である菅原千恵子さんの見解を参照しておきたいと思います。菅原さんは、宮沢さんは保阪さんに「恋心を抱いていた」という独自の視点をもっている方ですが、ここではその点に関わることはせず、「けんか別れ」に関する見解だけを参照することだけにとどめておきたいと思います。

 菅原さんは指摘します。「実際の労働の場に身をおいたことのない賢治がはじめてみる世の中の姿といえば大げさであるけれど、親の囲いの中で、しかも頭の中で理想化された宗教世界に燃えていた賢治に、そのギャップは案外大きかったのではあるまいか」と言わざるをえないのですと。

 「だからこそ、嘉内から突然法華経徒として生きていくための具体的な望みや願いは何かと問われたとき、賢治は何も答えることが出来なかったのにちがいない」のです。「法華経を通して人々の幸せを願う賢治を嘉内は理解し認めていた。けれど、信仰による人々の具体的な救済とはいったい何なのかを問わずにはいられなかった。賢治は答えに窮する。国柱会々員になることや、国柱会の下足番をすることや、ビラ配りの布教活動をすることが人々の幸福のために生きる実践だったのか」嘉内さんを説得できるものではなかったのです。

 「『神はおれのうちにある』と宣言し、現実に鍬を持つことで商業主義の嵐に荒む農村の中に入ってゆこうとしていた嘉内が、賢治と再会したとき、日本農村の暗い現実、法華経の無力、賢治の信仰の観念性を鋭く突いたであろうことは容易に察せられる」のです。

 実際には折伏をめぐってどのようなやり取りがあったのか確証はないのですが、日蓮さんの降誕700年の奇蹟により宮沢さんが菩薩となるという夢が幻と終ってしまったことは確かなことでしょう。その上、菅原さんが推測したように、苦しむ一切の衆生を救うということの「具体的な望みや願いは何か」が分からなくなってしまったことも確かなのではないでしょうか。

 自分が成仏することさえできればすべての存在が救われ、仏国土が実現すると思い込みすぎていたのではないかと思います。しかし、社会を作り変えることができるのは、社会を構成している人々自身でなければならないのです。例え宇宙の真理を把握したとしても、誰か一人の人の思いで社会を変えることはできません。その一人の「人」が神や仏であっても、宇宙意志であっても、自由自在に社会を作り変えることはできません。社会を作り、変えていくのはそうしたいという集合的な意志をもった「人々」自身なのです。

 国柱会での活動をこのまま続けていくべきか、急速に宮沢さんに迷いが生じます。1921年7月13日の関徳弥さん宛の手紙の中でそうした自分の状況を次のように記していました。「私の立場はもっと悲しいのです。あなたぎりにして黙っておいて下さい。信仰は一向動揺しませんからご安心ねがひます。そんなら何の動揺かしばらく聞かずに置いて下さい」。「おゝ。妙法蓮華経のあるが如くに総てをあらしめよ。私には私の望みや願ひがどんなものやらわからない」のですと。

 このとき宮沢さんは国柱会で活動しつづけることは最早できないと感じていたのではないでしょうか。ではどうしたらよいのか、心底迷っていたように思えます。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン