シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんの父という存在

 国柱会に入会し、日蓮さんの力で菩薩道を完成させるとともに、仲間をえることによって仏国土建設に生涯を懸けようとした宮沢さんの目論見は、あっけなく行き詰ります。しかも、この度の上京は、一生故郷である花巻には帰らないとの宣言をしてしまっていました。目論見が行き詰ったからといって、おいそれとは花巻には戻ることもできない状況だったのではないでしょうか。この窮地を救ったのが、宮沢さんのお父さんである正次郎さんでした。

 ところで、宮沢家における正次郎さんと賢治さんの親子関係は、社会学的に見ても非常に興味ある関係性であったと言えます。なぜならば、岩手県は、日本の家父長的家族制度の土地柄の地域であったからです。親方・子方関係を基礎とする家制度という日本の家族制度に関する研究者であり、『日本家族制度と小作制度』という社会学の名著を生み出した有賀喜左衛門さんがその研究フィールドとしていた地域社会が岩手県でした。

 家父長的家族制度の下では、「厳父慈母」というのが理想的な親の在り方だったのではないでしょうか。父親という存在は、子に対して厳しく接し、これまで長らく伝えられてきた社会や家の掟を子の自由を束縛しても「しつけ」、型づけしていく役割を負っているものとされてきたのではないかと思います。しかし、宮沢さん親子関係はそうした家父長制的家族制度の下の親子関係のイメージとは程遠いと感じるのです。

 父親であった正次郎さんは、賢治さんの死後、賢治さんとの関係を、自由奔放な暴れ馬を地上に繋ぎとめておくことが自分の役割であったと語ったと言われています。すなわち、「早熟児で、仏教を知らなかったら始末におえぬ遊蕩児になったろうといい、また、自由奔放でいつ天空へ飛び去ってしまうかわからないので、この天馬を地上につなぎとめるために手綱をとってきた」(『校本宮澤賢治全集第14巻』)と語っていたのです。

 ただその手綱のとり方は非常に慈愛に満ちたものだったものであったと感じます。自分がよいと思うことを無理やりにでも押し付けるというのではなく、賢治さんを温かく見守り、賢治さんがやりたいと思ったことをできるだけ応援しようとしてきたのではないでしょうか。ただやりたいことすべてを賢治さんが言うがままに認めるのではなく、厳しい現実社会の先輩として、ノーを突きつけ、再考を求めたこともありました。さらに、賢治さんが何か困難を抱え、行き詰ったときには、賢治さんの自尊心を傷つけないように配慮しつつ、どうしたらよいかについての提案や代案を示し、提供していたのではないかと思います。

 個人的な感想になるのですが、正次郎さんの賢治さんに対する父親としての接し方は、なかなか社会的に受け入れられないという困難を抱えている我が子に父親はどのように接したらよいかについて非常に参考になるのではないかと考えます。

 そうした慈愛深い正次郎さんの父親像へ着目したのが、第158回直木賞作家の門井慶喜さんでした。門井さんは受賞作『銀河鉄道の父』の中で、正次郎さんの賢治さんに対する慈愛の深さを次のように描き出していました。それは、賢治さんが7歳のとき、赤痢に罹り命の危険に陥ったときのことです。正次郎さんは賢治さんを自分の命を懸けて必死に看病し、その命を救ったのです。

 「『病名は?』/『赤痢なんだと』/(賢治が、死ぬ)/一足飛びに、意識がその恐怖へ到達した。それだけは嫌だった。そんなことになるぐらいなら、/(私が、死ぬ)/この刹那(せつな)正次郎の心の何かが切れた。世間で当然とされる家長像、父親像がまるで霧のように消え去った」のです。

 「『賢治のめんどうは私が見る。看護婦ごときに任せられぬ』/『まあ、それでは……』/イチはことばを濁(にご)したが、あとにつづくのが、/――近所に顔向けができません、/……地方では、看護婦というのは要するに病室の女中にすぎなかった。/教育のない若い女がやる汚れ仕事、それが家長がやるというのだ。イチは袖(そで)にすがるようにして」引き留めようとしたのです。

 正次郎さんの父親である喜助さんも正次郎さんを引き留めようとしましたが、それでも正次郎さんは賢治さんの看護行為を実行し、賢治さんの命を救ったのでした。その代償として、自分自身が赤痢に罹り、内臓をその後持病となるくらい弱めてしまったのです。

 賢治さんが赤痢に罹ったときの正次郎さんのとった行動が果たして門井さんが描写した通りのものであったかどうかは、まだ確実には分からないというのが本当のところでしょう。しかし、正次郎さんは深い愛情によって賢治さんの病気に向き合ったということは推測できるのではないかと思います。

 いくら息子とはいっても賢治さんは他人です。にもかかわらず自分の命を懸けてその命を救おうとした正次郎さんの姿勢は、潜在的な形であるかもしれませんが、自分の命を捨てても人のために行動するという人としての在り方のモデルとして、正次郎さんがとった行動は賢治さんの心の奥底に記憶として刻み込まれたかもしれません。

 では国柱会への入会という出来事のときに、正次郎さんはどのような形で賢治さんに向き合ったのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン