シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

人を救うとはどういうことか?

 ここであらためて人を救うということを宮沢さんはどのように考えていたのか確認しておきたいと思います。というのも、国柱会に夢中になっていた時には、自分が成仏さえできれば自動的にすべての人だけでなく、万物の存在を救うことができるかのように思っていたのではないかと感じるからです。「わが成仏の日は山川草木みな成仏する」とは、宮沢さんの有名な言葉です。

 普通は、人を救うと言えば、何らかのことで苦しんでいる、困っている、苦悩している人に対し、援助や支援の手を差し伸べてそれらのことから救ってあげる行為を思い浮かべるのではないでしょうか。そのためのNPO法人を組織したり、ボランティアで何らかの事柄に特化して活動しているのではないかと思います。

 宗教者の人たちも、自分たちが信じる教えを広めるということとは別に、上記のような具体的な救済活動を行うことがたびたびあります。ご自身も「副住職」に携わっている『慈悲(じひ)をめぐる心象(しんしょう)スケッチ』の著者である玄侑宗久さんは、仏教の宗派によってそうした具体的救済活動の形に違いが見られるのではないかという、そのことに関して社会学的には大変興味惹かれる考察を示してくれています。

 玄侑さんはよれば、「お寺にはじつに多くの浮浪者めいた人々が寄って」きます。その人たちに、「何宗のお寺がいちばん助けてくれますか?」と聞くと、多くは浄土教系統のお寺だと答えるそうなのです。他方、北海道で見聞したことを例に、「なにか自然災害などが起きたとき、……真っ先に大勢駆けつけるのは日蓮宗のお坊さん」ではないかと言います。その上で、玄侑さんは、仏教の「同じ慈悲と云っても自力聖道門と他力浄土門では違いがある」のではないかと考察しています。

 一方、宮沢さんの場合は、法華経の教えを流布すること、そして仏国土を建設することが人を救うことだったのです。保阪さんの場合は、「神の国」の建設が人を救うことだったのではないでしょうか。さらに、仏国土の建設、「神の国」の建設とは、具体的にはどのようなもので、どのようにして現実化していくのかということに関しては、保阪さんに関しては具体的なビジョンがあったようですが、宮沢さんに関しては、自分独自のビジョンはなく、国柱会だのみだったと思われます。

 では、保阪さんは、具体的にどのようなビジョンをもっていたのでしょうか。このことに関しては、『続・私の宮沢賢治』の著者である内田朝雄さんの示唆を参照します。内田さんはこの著書の中で、「保阪は、明治三十九年、四十三年の記録的な水害の惨状を眼にして、荒れ果てた村々を美田で埋め尽くすことを、未だ小さな小学生の自分の胸に誓ったという」ことを紹介しています。

 さらに、内田さんは、『宮沢賢治友への手紙』から引用する形で、「保阪は早くも、盛岡高農入学の目的を次のように定めていたことを紹介しています。その引用の文章とは、「農学を修めて故郷に帰り村長となる事。土地を改良し、農業副業を興し、多角経営、協同組合組織を基礎に模範農村を築く事。この理想村には、保阪が好きだった芝居を演ずる農民館、図書館、体育館から村立病院迄が存在する筈であった」というものです。

 この高等農林学校入学時の入学目的を見ていると、国柱会から離れ帰花し、1926年からは、「自炊生活を始め、農耕に従事する」、「羅須地人協会をつくる」、そして「肥料設計事務所を設ける」というような宮沢さんの活動のほとんどは、正確な形こそ違えていますが、保阪さんの若き日の自己の人生に関する将来設計図に含まれていたように思えてくるのです。宮沢さんのそれらの活動については今後の考察課題となりますが、興味深い「一致」です。

 しかしいずれにしても、国柱会への奉仕に期待と希望を失ってしまった今、今後どうしたらよいか、宮沢さんは本当に行き詰ってしまったのではないかと察せられます。家の者には一生帰らない、世話にもならないと宣言してしまっていました。事実、お父さんからの送金にも手をつけず、送り返していたときもあったと言われています。しかしこの窮地を救ったのは、またしてもお父さんだったようです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン