シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

日蓮さんの教えを信じ膨らみゆく夢・希望・期待(2)

 日蓮さんの降誕700年、そして「天業民報」の記事にある日蓮さんが「世間に行じ給ひ」ということは、宮沢さんにとってどのような意味をもつものだったのでしょうか。それは、宮沢さんと、もし宮沢さんの折伏を受け入れ日蓮さんの教えに帰依していたとすれば保阪さんもともに、念願であった菩薩道を完成させ、「成仏」できる日の到来を意味するものだったのではないかと、推測します。それは、いよいよ、「総ての人よ。諸共に真実に道を求めやう。」と叫ぶことができる日の到来なのです。その日とは、1921年2月16日のはずでした。

 仏さんは、菩薩道をめざす人を見守り、ときにはその神力によって奇蹟を与えることがあることが、華厳経に記されています。それは、華厳経の「入法界品」にあります。『仏教経典選5 華厳経』の著者である木村清孝さんの解説でその話の内容を確認しておきたいと思います。

 木村さんによれば、華厳経とは、「仏のさとりの内実、あるいはさとりの真実を体現した仏そのものを追求し開示すること」、そして「そういう仏のさとりへ到達する道を明らかにする」経典なのだそうです。その中の「入法界品」は、「善財童子」という主人公が、「さまざまな……師を訪ねて教えを開き、最後に普賢菩薩のもとで仏となることを予言される」物語です。それは、理想的な菩薩の生き方を示しているのだそうです。それは、宮沢さんのモデルともなりうる生き方を示すものだったのではないでしょうか。

 その物語の中で、「文殊師利」さんが次のように諭す場面があります。「善き師を求め、近づき、敬い、一心に供養しつづけ、菩薩の実践について尋ねるがよい」というようにです。宮沢さんにとって、「善き師」とは、そのときは日蓮さんに他ならなかったのでしょう。しかも、仏さんはそうした努力を見守っており、ときに支えてくれることがあるというのです。

 「如来は無量劫に、時として乃ち世に出興す」るのです。「(仏は)一瞬のうちに過去・現在・未来の一切のものに通じ、衆生の能力・性質を知り、教化すべきように教化する」、「(つまり)衆生の心の煩悩と、かれらのさまざまの行為の善悪と、彼らの願いとをすべて知り、かれらのために正しい教えを説く」のです。

 そして、ときに仏さんは奇跡をもおこすというのです。すなわち、「仏は自分の口から八万四千の美しい光を放ってあらゆる世界を隈なく照らし、無数の煩悩を取り除く」というのです。そして、「この教えを聞いて喜び、信心を起こし、疑いを捨てる者は、すみやかに無上の道を完成し、仏たちと等しい(境地に到達する)」のです。1921年2月16日に、宮沢さんにとってのその日が来るとの希望と期待を抱いたのではないでしょうか。

 宮沢さんの日蓮さんへの信心行動のボルテージが一気に上昇していきます。1921年1月中旬の保阪さんへの手紙には、「恐ろしさや恥づかしさに顫えながら」、「(その夜月の沈む迠坐って唱題しやうとした田圃から立って)花巻町を叫んで歩いたのです」。その夜とは、日蓮さんの「竜ノ口御法難六百五十年の夜(旧暦)」でした。

 そして、同じ年の1月には、居ても立っても居られずとうとう意を決して国柱会へと上京することになります。同年1月30日の関徳弥さんへの手紙でそのときのことを次のように伝えています。

 「何としても最早出るより仕方ない。あしたにしやうか明後日にしやうかと二十三日の暮方店の火鉢で一人考へて居りました。その時頭の上の棚から御書が二冊共ばったり背中に落ちました。さあもう今だ。今夜だ」と、とっさに上京の挙にでたのですと。宮沢さんにとって「御書が二冊共ばったり背中に落ち」たできごとは、いよいよ成仏を成し遂げるために仏さんから呼び出されたとの徴だったのではないでしょうか。

 そして宮沢さんにとっては、自分が成仏することがこの世界の一切の生命を救う道でもあったのです。それは、自己と自分を取り巻くすべての世界との関係をどのようにとらえるのかということに関係しています。私たちの心的活動は、私たちを取り巻くすべての世界の過去・現在・未来の出来事すべてを反映・包み込んでいるという、とくに日蓮さんが強調していたといわれる「一念三千大千世界」というとらえかたを、宮沢さんは心から信じていたのだと思います。宮沢さんにとっては、「わが成仏の日は山川草木みな成仏する」日となるはずなのです。

 心友保阪さんへの手紙でそのことを確認しておきましょう。「私は愚かな鈍いものです 求めて疑つて何物も得ません 遂にけれども一切を得ます 我れこれ一切なるが故に悟った様な事を云ふのではありません 南無妙法蓮華経と一度叫ぶときには世界と我と共に不可思議の光に包まれるのです」(1918年3月20日前後)。

 「私は前の手紙に階書で南無妙法蓮華経と書き列ねてあなたに御送り致しました。あの南の字を書くとき無の字を書くとき私の前には数知らぬ世界が現じ又滅しました。あの字の一一の中には私の三千大世界が過去現在未来に亘つて生きてゐるのです」(同年6月27日)。

 そして、1921年1月中旬ごろの手紙で、以前の手紙で書いた「不思議の光」の意味することについて次のように書き送るのです。「すぐもう私共一同の前に、鋭い感覚を持った生物が、数万度の高熱の中に封ぜられ一日に八万四千回悶きながら叫び乍ら生れ、死に、生れ死にしなければならないといふはっきりした事があるのです」と。

 そして、保阪さんに呼びかけます。「一緒に一緒にこの聖業に従ふ事を許され様ではありませんか。憐れな衆生を救はうではありませんか」というように。NHKの宗教の時間の「『観無量寿経』をひらく」の講師であった釈撤宗さんによれば、生前の行いが死に際して、「上品上生の人は、大勢のお迎えとともに浄土へ往生して、ただちにさとりを得ます」が、「中品下生」の人は7日間、「下品上生」の人は49日間、「蓮華の中に閉じ込められる」ことで浄土に生まれ変わることができるのだそうです。

 上記の宮沢さんの手紙の文章はそうした浄土への生まれ変わりの話を、菩薩道における生まれ変わりの話として応用したのではないでしょうか。そのように理解してみたのですが、しかし、それでも宮沢さんが本当にそうした生まれ変わりの奇蹟を信じていたのか、にわかには信じられない気持ちも残ります。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン