シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

『春と修羅』を読んでみる(1)

 『春と修羅』とは宇宙意志・真理を把握するための宮沢さんの心象スケッチの記録なのだと思うのですが、それはどのような内容をめざした記録なのでしょうか。それはこの当時宮沢さんが自分の菩薩道をどのように考えていたかに関係していると考えられるのです。同時にそのことはトルストイさんが言う人間の第一義的義務の内容に関わっているように思えます。

 そこで、すでに言及しており繰り返しとなるのですが、人間の第一義的義務をどのように主張していたのか、あらためて参照しておきたいと思います。トルストイさんは言います、「自他の生活を維持するために自然との闘いに参加するという義務は、人間の理性にとっては必ず第一の、疑いなきものとなる」のです。

 すなわち、「自分の第一の、疑いない仕事は、(自然と闘うことで)みずから養い、みずから着せ、みずから暖め、みずから建てることであり、そのことの中で他人に奉仕することである(なんとなれば世界が存在して以来、全人類の第一の、疑いなき義務は、ほかならぬこの点にあるからである)」[(自然と闘うことで)は引用者によるものです。]のですと。

 こうしたトルストイさんの人間の第一の義務を果たすことを菩薩道としようとしたとき、宮沢さんはそのときの自分はその道からほど遠い存在であることを強く意識せざるをえなかったのではないでしょうか。

 なぜならば、それまで自分の生活を自分自身で支えたことは一度もなく、父親に依存しっぱなしでした。またその菩薩道をともに歩むことを祈念していた心友の保阪さんは自分の夢実現のために宮沢さんとは異なった道を歩み始めていました。宮沢さんは自分一人で歩みつづけなければならなくなっていたのです。そのため、自然との闘いにも参加することができないでいました。ましてや、自然との闘いを通して他人に奉仕するということは夢の夢だったに違いないのです。

 そうした自分の情けない状況に、宮沢さんは忸怩たる思いだけでなく、怒りにすら感じていたのでしょう。そうした気持ちが「春と修羅」には表現されています。

 「いかりのにがさまた青さ

  四月の気層のひかりの底を

  唾(つばき)し はぎしりゆききする

  おれはひとりの修羅なのだ」

 この文章には如何に自分は菩薩からは遠い存在でしかないか、宮沢さんの嘆きが表現されているように思えます。

 また「小岩井農場」と名づけられている作品には、菩薩道をともに歩むことを熱望し、懇願もした心友保阪さんと離れ、ただ一人で歩まなければならなくなった淋しさが、繰り返し叫ばれています。

 「いまこそおれはさびしくない

  たったひとりで生きて行く

  こんなきままなたましひと

  たれがいっしょに行けようか

  もう大ぴらにまっすぐに進んで

  それでいけないといふのなら

  田舎ふうのダブルカラなど引き裂(さ)いてしまへ」

 

 「わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ

  どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは

  ひとはみんなきっと斯(か)ういふことになる

  きみたちとけふあふことができたので

  わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから

  血みどろになって遁(に)げなくてもいいのです」

 

 「もうけっしてさびしくはない

  なんべんさびしくないと云ったところで

  またさびしくなるのはきまってゐる

  けれどもここはこれでいいのだ

  すべてのさびしさとかなしさを焚(た)いて

  ひとは透明な軌道をすすむ」

 これらの文章には、自分は今後なにをなすべきか、その回答を求めて彷徨の旅をする宮沢さんの魂の叫びがつづられているように思えます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン