シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

デクノボーの叡知とドストエフスキーさん

 今福さんの言うデクノボーの叡知に関する宮沢さんの探究の軌跡を追っていくと、ドストエフスキーさんとの関係も気になってくるところです。それは、いわゆる宮沢さんの「雨ニモマケズ」手帳に残されている「土偶坊」を主人公にした演劇構想ノートを眺めているとそのような感じが湧いてくるのです。

 ドストエフスキーさんと宮沢さんの作品との関係性を示唆してくれたのは、清水正さんです。清水さんは宮沢さんの「銀河鉄道の夜」とドストエフスキーさんの「カラマーゾフの兄弟」との関係性を、自著『ドストエフスキー論全集10 宮沢賢治ドストエフスキー』の中で指摘しています。

 ただ清水さんによれば、宮沢さんとドストエフスキーさんとの関係は、トルストイさんとの関係のようには明確に語ることができないそうなのです。すなわち、清水さんによれば、

 「宮沢賢治の年譜を見ると、彼がツルゲーネフトルストイロシア文学に触れたのは大正二年、彼が十七才頃である。余りに簡単な記述なので、賢治がドストエフスキーを読んだのか、それとも『カラマーゾフの兄弟』を読んだのか全く見当もつかない」のです。

 しかし、同じく清水さんによれば、「イヴァン・カラマーゾフとジョバンニは余りにも近似した存在として浮かび上がって」くるのだそうです。

 そのことをヒントにここでの論題に焦点を当ててみると、今福さんの言うデクノボーの叡智に関しては、ドストエフスキーさんの「白痴」という作品との関係性にも興味が惹かれてきます。とくに上記の演劇構想ノートの第八景「恋スル女」から第十景「帰依ノ女」までの構想に関してそのように感じるのです。

 翻訳者である木村浩さんの新潮社版『ドストエフスキー全集10』の解題を参照すると、「長編『白痴』は一八六八年一月から十二月にかけて、雑誌《ロシア報知》の七三号から七八号に連載された」世間からバカ・木偶の坊呼ばわりされているムイシュキン公爵を主人公とする小説です。

 ではこの小説の主人公であるムイシュキン公爵とはどのような人物なのでしょうか。人の言葉を文字通りことば通りに受け取ってしまう、困っている人を助けないではいられず、お金にも頓着せず、請われるまま人に渡してしまうような人で、そのため周りの人たちから白痴(バカ)呼ばわりされている人です。

 しかし、一方では、素直で、謙虚、いばらず誰とでも均しく平等に接しようとしていることで、多くの人たちから信頼され、愛される人物でもあるのです。『ドストエフスキー全集26』にある「白痴」の「創作ノート」には、ムイシュキン公爵の人物像の構想が次のように書かれています。

 「公爵の性格における主要な特質。/いじけた感じ。/おどおどしたところ。/いくじなし。/謙虚さ(⼂⼂⼂)。/自分は〈白痴〉であるという絶対的な確信。」この「創作ノート」にあるように、この小説の主人公であるムイシュキン公爵は決してスーパーマンのような人物ではなく、むしろ人間的弱みをもち、そのことを自分でも自覚している人物なのだということに興味が惹かれます。

 「しかし、心と良心が〈いや、これはそうなのだ〉と彼に囁けば、彼はすべての人の意見に逆らってもそれを実行する。」

 「彼の世界観。彼はすべてのことを赦している。至るところに原因を見ているけれども、赦すべからざる罪は認めず、すべてのこと(⼂⼂⼂⼂⼂)を赦している。」

 「彼自身は自分を誰よりも劣ったつまらない者と考えている。周囲の人びとの考えをすっかり見通している。自分が白痴だとされていることを完全に見抜いて、そう確信している。」等々というようにです。

 この小説の中で、公爵は、アグラーヤさんとナスターシャ・フィリボヴナさんという、所属している社会階層や境遇、そして性格は違っているが、同じように非常な美しさを有している二人の美女から愛されるのです。

 そして、公爵は、社会的境遇に恵まれていない「ナスターシャ・フィリボヴナを救い、その世話をみることで、……キリスト教的な愛の感情によって行動」することで、「二人(⼂⼂)を手引きして、改心させ(⼂⼂⼂⼂)」るというのが、この小説の結末となるのです。

 ではそうした内容をもっているこの小説でドストエフスキーさんは何を描こうとしたのでしょうか。参照した全集の解題には、この小説の意図が示されているマイコフさんへの手紙が紹介されています。そこには、この「〈新しい長編〉の意図を次のように説明して」います。

 ドストエフスキーさんのその意図とは、「完全に美しい人間を描くこと(⼂⼂⼂⼂⼂⼂⼂⼂⼂⼂⼂⼂⼂)です。私の考えでは、特に現代においてこれほどむずかしいことはないように思われます」というものです。

 宮沢さんは文学作品だけではなく、自分自身の生き方においてもドストエフスキーさんの言う「完全に美しい人間」の生き方をめざそうとしていたのではないか、どうしてもそんな思いが湧きあがってくるのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン