シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

良寛さんと宮沢賢治さん(3)

 良寛さんは、円通寺の修行時代、常に孤独だったといいます。なぜならば、真の真理をめざして修行している良寛さんが、お金まみれの「番々出世」だけを目的として修行している他の弟子の人たちになじめなかったからです。それは、師匠であった「国仙から見て、良寛と他の弟子の間に距離を置いた方が良い」と感じさせるほどのものだったといいます。その当時を振り返った良寛さんの漢詩の冒頭は、「憶う円通に在りし時/恒に我が道の孤なるを嘆ず」というものだったのです。

 阿部さんによれば、当時良寛さんは、真の悟りを求めて修行をしていた良寛さんとは違って、ひたすら「番々出世」の道を歩んでいた「自分の同僚の僧たちは昼夜を問わず、やれ読経だ、やれ問答だと、大声でわめき回り、ただ生活に必要な衣食を得るために力を労している。悟りの真理とはほど遠い、仏教の外面ばかりを、生涯あちらこちら走り回って終わる」存在であると見ていたのです。

 そのため、良寛さんは、それらの修行僧たちへ厳しい批判の目を向けていたのです。そして、良寛さんは、その批判の目を、「僧伽(そうぎゃ)」という漢詩の作品として残し、良寛さんも属していた「宗門寺院の僧侶一般の堕落を暴(あば)き出している」のです。

 少々長い引用となるのですが、良寛さんはなぜその後乞食僧という道に入っていったのか、その原点となっている批判なので、阿部さんの現代語訳の文章を参照しておくことにしたいと思います。阿部さんは解釈します、

 「今時の僧侶は仏陀の弟子と自称しているが、修行の励みもなければ悟りもなく、ただ檀家の人々を無駄に食いつぶしているのみだ。身(行い)語(言葉使い)意(心持ち)の三種の業で罪を作り続けながら、お互いに反省する兆しさえない。額を集めては大声でしゃべりまくり、彼らの悪事は朝も晩も止まることを知らない。外見だけは立派に着飾り、無知の田舎のおばさんがたを誑かして回り、自分はなかなかのやり手だと勝手に思い込む。たとえ子供を守るので気が荒くなっている母虎の群れに遭遇するような危険を犯しても、名刹の迷路はそれよりももっと危険だから、絶対に踏み込むな。ほんの纔かでも名刹への欲望が心に入りこむと、それは大海ほどの大量の水でも濯ぎ浄めることはできない」とです。

 この阿部さんの良寛さんの「僧伽(そうぎゃ)」という漢詩の作品の解釈に接すると、良寛さんがいかに強烈な同僚の修行僧たちへの批判者であったかを感じない訳にはいきません。それでは、良寛さんがいかに修行僧仲間の中で浮いた存在となってしまっていたか、容易に想像できます。

 阿部さんの著作からこの良寛さんの修行僧としての修行時代のエピソードを知ったとき、まず念頭に浮かんだことは、良寛さんの上述の同僚の修行僧たちとの関係性は、宮沢さんの同じ地域の農民たちとの関係性とうりふたつのように似通っているというものでした。なぜならば、二人とも、身近な人たちに対して、はげしい怒りをともなった厳しい批判の目を向けているからです。しかも、二人とも、自分はブッダさんの教えに従って真の悟りを開く者であると自覚し、そのための努力に真摯に取り組めば取り組むほど、その怒りと批判の目ははげしさを増していっていたと感じます。

 早くに人生の終末を迎えなければならなかった宮沢さんは、そうした自分の心情に、理想的にはそうであってはならないと頭では分かっていても(なぜならば怒りという感情は仏教においては悪事中の悪事とされていたのですから)、生涯苦しんでいたのではないかと推測します。

 しかし、宮沢さんと比べると、かなり長生きをした良寛さんは、道元さんの『正法眼蔵』の教えに出会うことによってそうした自分の心情を超越していくことになるのです。終活中の私にとってもそれはどのような教えであったのか、非常に興味が湧くことがらです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン