シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

良寛さんと宮沢賢治さん(2)

 『評伝 良寛』の著者である阿部龍一さんによれば、良寛さんという人物は、幼かったときから「権威や体制の時流に流されない」反骨精神をもち、「自分の理想にそぐわないものははっきりと退けて人生の進路を定め」ていった人であったといいます。また、良寛さんは、「七四歳で入滅するまで、乞食行という独創的な修行を貫いて生き」るという「並外れた強さとしなやかさを併せ持った人物」であったというのです。そうした良寛さんはどのような経過をたどって乞食僧という修行の道を選ぶことになって行ったのでしょうか。そこにはどのような心境の変化または信仰上の転換が起こったというのでしょうか。

 良寛さんは、円通寺での禅僧としての修行を開始したときには、持ち前の生真面目さで全力でのその修行に打ち込んでいったといいます。そのことは、後に「円通寺での修行時代を回顧した『憶在円通寺』で始まる五言詩に見ることができるというのです。そこには、

 「入室は敢えて後(おくるる)にあらず・朝参は常に徒に先んず(入室非敢後・朝参常先徒)」と記されているのです。その文章にある「入室」とは、師の説教を受けること、そして「朝参」とは、朝の座禅修行を意味するのですが、上記の文章は、良寛さんがいかに円通寺において「禅を学び習うことに全力を注いでいた」かを示しているのです。

 しかし、そうした熱意と新たに生まれ変わる自分への大いなる希望を抱いた禅修行は、長くはつづかなかったと言います。それは、当時の仏教界を覆っていた現実が、良寛さんが思い描いていた理想とはほど遠いものとなっていたからです。阿部さんによれば、「それは禅宗を含む江戸時代のすべての仏教宗門では、修行時代が終わり一寺の住職になると、寺請制度、檀家制度、本山末寺制度を支える体制の側に否応無く吞み込まれてしまう」、すなわち、それは良寛さんにとっては、「住職として生きることは修行僧の純朴とは正反対ともいえる」生き方に連れ戻されることを意味していたからなのです。

 良寛さんが禅宗の修行に打ち込んでいた時代、「修行を終え住職となった僧侶たちが運営する江戸時代の巨大な教団組織はどれも、権力、金、大寺院の権威などをめぐって派閥争いが絶えず、腐敗していた」のです。良寛さんはそうした俗世間の醜悪さから自由になり、阿部さんによれば土に付いた質素ではあるが、精神的に豊かな自給自足の生活を理想とする生き方を求めて禅宗の修行僧となったのです。しかし、現実は厳しく、醜悪なものだったのです。禅宗の修行に全力で打ち込み、励めば励むほど、理想と自分を取り巻く現実とのギャップを良寛さんはいやというほど「思い知らされて」いくのです。

 当時の巨大教団体制における腐敗は、修行のあり方に如実に現れていたと、阿部さんは言います。すなわち、当時の修行は悟りを開き、成仏するためではなく、位階制度の体制となっていた巨大教団組織の出世街道をひたすら登りつめるためのものとなっていたというのです。阿部さんは、そうした風潮を「番々出世」という用語で表現しています。しかもさらに悪いことに、その出世も金次第となっていたというのです。極端に言えば、お金さえ積めば、修行せずとも一寺の僧侶になれてしまうのです。組織の巨大化はその組織にどのような変化をもたらすのかは、社会学にとって非常に興味深いテーマです。しかし、そうした巨大教団組織体制の腐敗ぶりを暴くことがここでの目的ではありませんので、関心のある方は、ぜひ阿部さんの著作を読んでいただければと思います。

 ここで重要なことは、ひたすらあるべき禅僧としての修行に打ち込んでいた良寛さんが、良寛さんが身をおいていた寺院の中で孤立化していき、精神的にも危機に直面していったということです。それはどのようなもので、良寛さんはその危機を乗り越えるためにどのような決断をしていくことになったのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン