シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

科学と宗教、そして社会づくり

 「真理(法)探求」の人とは、道元さんのことではないかと考えます。師の死に目に立ち会うことより「真理(法)探求」の修行を優先するようお弟子さんに諭したとされる逸話がその象徴となるのではないでしょうか。

 宗教における「実践」は、宗教的悟りを求める人すべての人を表している用語ではないかと思います。なぜならば、歯を磨いたり顔を洗ったりすることを含め、日常生活における生活すべてが修行のための「実践」であると考えられているようだからです。

 しかし、反権力的社会変革という性格をもつ社会づくりの「実践」の人ということに着目すれば、時代や社会の中でふさわしい人を数多くあげることができるかもしれません。宮沢さんが師として信仰した日蓮さんもそうした人のひとりでしょう。なぜならば当時の権力による弾圧を受けながら、法華経の行き渡った社会を実現しようとしていったのですから。

 しかし、他方で、日蓮さんの場合は、自分の仏教の教えこそ正しい教えであり、そのことを認め、国の宗教として自分の教えを採用し、国中に流布することを進めることを権力に求めていこうとしていたのであり、決して時の権力への反権力者、または打倒権力者ではなかったとも言えます。

 これからはせっかく京都を訪ねていたということもあって、京都という社会が生んだ、反権力的社会変革という性格をもつ「正義」と結びついた「実践」の人として、山本宣治さんという人に注目していくことにしようと思います。その理由は、山本さんが思いのほか多くの宮沢さんの境遇との共通点を有していることを知ったからです。

 短い期間ではありましたが折角京都に滞在する機会をもてたので、1日だけに過ぎませんでしたが、府立図書館を訪れることができました。京都で興味あるテーマに出会えたらまた図書館に通うということになるかもしれないと考えたからです(しかし、残念なことに京都を去ったあと、感染力の強いオミクロン株の新型コロナが猛威をふるい、この執筆時点では全国的な急拡大がつづいており、残念ですがまたしばらくの間は自分の家でじっとしていなければならないようです。)。

 訪問してみて図書館には興味ある文献が沢山あることが分かりました。その一つひとつを紹介することはしませんが、社会学にとっても興味深い京都の「街衆」に関する文献では京都の「町衆」や彼らの「自治組織」の形成に日蓮宗の影響があったことが論じられており、さすが京都、地域社会づくりに宗教が深く関わっているのではないかという希望をもつことができました。社会づくりと宗教との関係性についてのテーマに、京都はことかかないことがあらためて分かりました。

 そして、そのとき出会った文献の中に山本宣治さんに関する文献もあったのです。それらの文献の立ち読みによれば、山本さんも裕福な家族に生まれています。また両親とも熱心なクリスチャンで、山本さんもその影響を受けて育ったのです。さらに病弱であったことも宮沢さんとの共通点です。

 さらに山本さんの小さかったころの夢は、家が「花やしき」(花かんざし屋)であったこともあって、社会をきれいな花でいっぱいにしたいというものであったと言います。1906年には園芸家をめざして大隈重信さんの家に住み込みで、園芸修行を行っています。さらに、1907年からは、カナダのバンクーバーにわたり、園芸のほか約30種類の職業を転々とした生活経験もしています。

 1889年に生まれ、1929年に死亡しており、山本さんはほぼ宮沢さんと同時代を生きた人物であると言ってもよいのではないかと思います。ただ科学と社会主義への向き合い方において二人は異なっていました。

 科学について見ると、宮沢さんは、「農民芸術概論要綱」において、「近代科学の実証」においてそれを論じたいと科学を肯定的にとらえている一方で、近代社会に入り宗教に置き換わった「科学は冷たく暗い」とその負の性格を感じています。山本さんは、カナダからの帰国後生物学者への道を歩み、その研究成果に基礎をおいたさまざまな社会政策を提言するようになっていきます。

 当時日本社会にも浸透してきていた社会主義への向き合い方についても違いが見られます。宮沢さんも一時期当時日本においても影響力をましていた社会主義に大きなシンパシーをもち、地元で労農党支部が開設された際には協力を惜しまなかったと言われています。

 山本さんの場合は、さらに一歩踏み込み、自身が党員となって活躍するようになります。そのため、山本さんは右翼団体から狙われ、1929年3月刺殺されその短い生涯を終えたのです。そうした経歴をもつ山本さんと宮沢さんの人生の歩みを比較することは、科学と宗教、そして社会づくりに関する宮沢さんの向き合い方の特徴を究明するためにも意味のあることではないかと感じた次第です。

 ただ現在のオミクロン株の流行状況では直ちにその作業を進めることはできそうにありません。じっとその機会が訪れるのを待ちたいと思います。ところで、蛇足的余談となるのですが、宮沢さんはあまり京都との縁はなさそうだと勝手に思い込んでいたこともあり、何らの下調べもせずに京都に来てしまっていました。

 しかし、京都から戻ったあと、小倉豊文さんの『宮沢賢治雨ニモマケズ手帳』研究』』を眺めているときに、折角京都へいったのであればぜひ訪ねておけばよかったと思われる場所があることを知ったのです。

 「雨ニモマケズ」手帳の137から138頁には、「元政上人」についてのノートが記されています。小倉さんの解説によれば、元政さんは、「江戸時代の日蓮宗の僧侶」で、「父母に対する奉養心の深いことでも名高い」人です。とくに、1659年、元政さんが37歳のときには、「母を奉じて見延詣で」をしています。妄想になりますが、宮沢さんの「銀河鉄道の夜」におけるジョバンニを想起してしまいます。

 そしてこの元政さんは、「一六五五(明暦元)年京都の南郊の深草村に深草山瑞光寺を創建」しています。しかも、死に際しては「遺言して墓石を建てさせず、竹三本を植えしめた彼の墓は、京都市伏見区の瑞光寺の側に現在も遺言通りにある」のだそうです。できればこの場所を訪れておけばよかったなという思いを強くしています。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン