シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

農学校教師を辞める(5)

 菅原さんによれば、そもそも、宮沢さんは、「嘉内の進もうとする道が気になって仕方がな」かったのです。そして、「花巻農学校の教師となっていよいよ強く嘉内の進もうとした道を意識するようになった」のです。

 その進もうとする道の具体化にあたっては、教え子たちの進路の問題が関係していると菅原さんは見ています。では当時農学校の生徒たちの卒業後の進路と就学状況とはどのようなものだったのでしょうか。

 菅原さんによれば、「卒業生の進路状況は、年々農業から離れ、上級学校への進学や、官公庁への就職といった方向に変わり、自営農はその数の多いときでさえ五〇パーセントから三〇パーセント程度しか残らなかったの」です。

 宮沢さんは農学校の教師時代、生徒たちには卒業後農業者として「大地を耕すこと」をめざせと、そして学校関係者には、「月給生活者多数輩出」がその学校の価値をあげるかのような考えは間違いであると力説していたといいます。その意味で当時の農学校の上記のような卒業生の進路状況は宮沢さんにとっては、決して好ましいものではなく、「次第に(自分自身)農業への道へ心が傾いて」[( )は引用者に依ります。]いったと菅原さんは見ます。

 さらに当時、せっかく「農学校に入学しながら経済が続かないため退学してゆく生徒たち」が少なくありませんでした。その状況に宮沢さんは、「ただ農村の窮状を見せつけられるだけで一教師にはなすすべもな」く、「はがゆさ」を感じていたのではないかと菅原さんは推測しています。そして、そのことが、「かつて嘉内の言っていた農村救済のために生きるということばがぐんと身近な問題として迫ってきた」のではないかと言うのです。

 ではなぜ経済的要因で退学せざるをえない生徒たちを前にすると、宮沢さんが教師生活を辞め、「農村救済のために生きる」という行動と結びつくことになるのでしょうか。

 そのことに関して、菅原さんは次のように考察してゆきます。宮沢さんが「花巻農学校で教鞭をとっていても、経済的に豊かな生徒は上級学校へ進学するか、あるいはサラリーマンの道を歩き、経済上苦しい生徒は『家庭の事情により』という理由で退学してゆく現実をみてきた」のです。

 そうした現状を見るにつけ、「本当に田を耕し、野菜を作る者たちこそ、学問としての農業技術を伝えたいのにそれができない。学校という公的な機関から離れた所で、しかも学費は無料で運営する私塾のようなものを作れば、現実に農業をしている若者に教育ができるはずである」と宮沢さんは考えたのではないかと推測します。

 なぜなら、宮沢さんは教師時代に、「農業を学んだ者たちがサラリーマンに憧れたりしないためには、農民のプライドと文化を持つことがひつようであ」り、「『卑屈な農民を胸を張って歩ける農民にしたい』(堀籠文之進『賢治とその周辺』)といつも同僚にはなしていたよう」だからなのです。

 では、宮沢さんは、経済的事情で中途退学せざるをえなくなった生徒を含め、自家の農業に従事している教え子たちをどのように励まそうとしていたのでしょうか。その内容は、「稲作挿話」や「告別」などの詩の作品に表現されています。前者の作品では、次のように励ましています。

 「これからの本当の勉強はねえ

  テニスをしながら商売の先生から

  義理で教はることではないんだ

  きみのやうにさ

  吹雪やわずかの仕事のひまで

  からだに刻んで行く勉強が

  まもなくぐんぐん強い芽を噴いて

  どこまでのびるかわからない

  それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ」というようにです。

 後者の作品では、次のような呼びかけを行っています。

 「おまえのバスの三連音が

  どんなぐあいに鳴ってゐたかを

  おそらくおまへはわかってゐまい

  ……

  すべての才や力や材といふものは

  ひとにとヾまるものでない

  ひとさへひとにとヾまらぬ

  云はなかったが、

  おれは四月はもう学校に居ないのだ

  恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう

  そのあとでおめへのいまのちからがにぶり

  きれいな音の正しい調子とその明るさを失って

  ふたたび回復できないならば

  おれはおまへをもう見ない

  なぜならおれは

  すこしぐらゐの仕事ができて

  そいつに腰をかけてるやうな

  そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

  もしおまへが

  よくきいてくれ

  ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき

  おまへに無数の影と光の像があらはれる

  おまへはそれを音にするのだ

  みんなが町で暮らしたり

  一日あそんでゐるときに

  おまへはひとりであの石原の草を刈る

  そのさびしさでおまへは音をつくるのだ

  多くの[侮]辱や窮乏の

  それらを噛んで歌ふのだ

  もし楽器がなかったら

  いヽかおまへはおれの弟子なのだ

  ちからのかぎり

  そらいっぱいの

  光でできたパイプオルガンを弾くがいヽ」というようにです。

 宮沢さんはこの作品の中で、このお「弟子」さんの音楽の才能は、1万人の中の5人に入るものと評価しています。そうした才能を、厳しい経済的・労働的環境と世間の蔑みの視線によって失われることがないようにと呼びかけ、激励しているのです。しかも、暗に自分はそうした「おまへの」努力を教師を辞めて支えるつもりであるとほのめかしているように感じるのです。

 宮沢さんが一番きらいなこと、それは、「すこしぐらゐの仕事ができて/そいつに腰をかけているやうな/そんな多数」なのだと言っているのですから。その言葉は、実は宮沢さん自身にも向けられているものなのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン