シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

農学校教師を辞める(4)

 宮沢さんが農学校の教師生活をおくっていた時期というのは、第一次世界大戦後の恐慌の影響が続いていた時期でもあったのです。その影響により宮沢さんの教え子たちは就学継続や卒業後の就職の困難に直面していたのです。そして、宮沢さんは教え子たちのそうした状況に心を痛めていました。

 そのことは、当時樺太の王子事業所に勤めていた杉山芳松さんへの1925年4月13日付の手紙にも示されています。その手紙には、自分が農学校の教師を辞めることになることについても以下のように記されています。

 「いつもご無沙汰がかりでほんとうに済みません。樺太は今年は未曾有の風雪であるなど新聞で見たりしていろいろ心配して居りました。こヽらも今年は春が遅く今日あたりやっと野原の雪が消えたばかりです。内地はいま非常な不景気です。今年の卒業生はもちろん古い人たちや大学あたりの人たちまでずゐぶん困る人も多いやうです。仕事もずゐぶん辛いでせうが、どうかお身体を大切に若いうちにしっかりした一生の基礎をつくって下さい。わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐつわけには行きませんから多分は来春はやめてもう本統の百姓になります。そして小さな農民劇団を利害なしに創ったりしたいと思ふのです」と。

 そして同じ手紙で教え子である杉山さんを次のように励ましています。

 「もしあなたがほんたうに成功ができるなら、それはあなたの誠意と人を信ずる正しい性質、あなたの巨きな努力によるのです。これからはもうわたくしが手紙を二通書いたとか、友だちに頼んだとかそんな安っぽいことを恩に着てゐるやうには考えずに、明るく気持ちよく友だち付合ひをして下さい」と。

 この手紙にも宮沢さんの教え子思いの人柄がよく表れています。また厳しい社会状況にどのように向き合ったらよいかについての宮沢さんの姿勢が示されていると感じます。

 私事で恐縮ですが、ちょうど平成の時代に私も教員生活を送りました。そして、この時代もまた卒業していった学生たちの就職や就労生活が一段と厳しさを増していった時代だったのです。さらに、現在は新型コロナ時代となり、その厳しさは、さらに質的にも変化しつづけているでしょう。

 私の教員生活の時代には、「就職氷河期」というような表現がされるくらい就職することが厳しくなっていった時代です。しかし、さらに大きな特徴は、「ブラック企業」という表現に示されているように、就職後の労働環境と労働生活の厳しさの増大なのではないでしょうか。

 そうした学生の就職と就労をめぐる状況の中で、私の印象に残っているのは、たとえ運よく就職できたとしても、職場の中での人間関係や働きつづけることのつらさに、卒業後の相談が多くなってきたということです。そして、相談に来るときには、彼らのほとんどはすでに職場を去ることを決めていたのです。

 いま悔やまれることは、相談に来る彼らに希望ある道を示すことが全くできなかったなということです。せいぜい、厳しい時代にせっかく就職できたのだからもう少し頑張ってみてはどうかというようなことを口にしてみることだけでした。彼らなりに頑張ってみるなかでやめる決心をすでにしてきていることが分かってはいたのですが。そうしたことで、宮沢さんが厳しい状況に直面した教え子たちにどのように対応したのか、非常に興味惹かれるテーマなのです。

 宮沢さんの農学校教師時代にも、教え子たちの進路をめぐって同じ性格の事情があり、とくに彼らが農学校に入学しながら農業に従事するようになるのは自ら希望してのことではなく、むしろ不本意で、仕方なく、泣く泣くのことであったということに関心が向きます。そして、そうした事情が教師を辞め新たな実践活動を始めるよう宮沢さんの気持ちを醸成していったのではないかと推測されるのです。

 この視点に焦点を当てた議論を展開しているのが、『宮沢賢治の青春 〝ただ一人の友〟保阪嘉内をめぐって』の著者である菅原千恵子さんです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン