最愛の妹トシさんの死に向き合ったことで、宮沢さんの心境にはどのような変化が起きていったのでしょうか。今度はけっして急激なものではありませんが、徐々に、しかし確実に仏国土建設に向かっての新しい挑戦に歩みださなければという気持ちが高まっていったのではないかと推測します。
『無量寿経』(中村元・早島鏡正・紀野一義訳註『浄土三部経(上)』岩波文庫)の中に次のような一説があります。
「人はこの愛欲の世間にひとりで生まれ、ひとりで死に、ひとりで去り、ひとりで来るのだ。行なうところに随って苦しみの人生を得たり、幸福な人生を得たりする。行なう者自身がその報いを受けるのであり、代りに受けてくれる者はだれもいないのだ」。
「わざわいと幸福とは別々の所で、あらかじめ厳然と(来るべき人を)待っているのであり、人はひとりでそこに趣(おもむ)くのだ。遠く離れた別々の所に行くのであるから、もはや見ることはできない。……別離することはるかである。行く道を異にするのであるから再び会う機会はない」。
「(そうであるから)どうして、めいめいが未だ強健である間に、世間の俗事を捨てて、努力して善を実行し、彼岸に達するよう精進しないのであろうか。(そうしさえすれば)きわめて長い生を得るであろうに」。
宮沢さんは死別したトシさんは無上道を歩んでいると信じています。ならば自分も「強健」でいるうちに、そして少しでも早く無上道を歩まなければならないのではないだろうかと感じるようになっていったのではないでしょうか。
「永訣の朝」の中で宮沢さんは、「ありがたうわたくしのけなげないもうとよ わたくしもまっすぐにすすんでいくから」と誓っています。
しかし、「オホーツク挽歌」の中では、宮沢さんは、
「わたくしがまだとし子のことを考へてゐると
なぜおまへはそんなにひとりばかりの妹を
悼(いた)んでゐるかと遠いひとびとの表情が言ひ
またわたくしのなかでいふ
(Casual observer! Superficial traveler!)」
宮沢さんにはトシさんと死別から受けた精神的なダメージから回復するための時間が必要だったようです。あまりにも悲しく、心も暗く沈んでしまっている自分を何とか取り戻さなければならなかったのです。
そしてその少し長い喪の仕事をしなければならなかったことがその後の宮沢さんの仏国土に関するイメージを創っていくことに関係していったものと思われます。
ところで人は仏国土、より通俗的なことばで言えば極楽浄土(「〈幸あるところ〉という世界」)と聞いて、それはどのような状態の世界のことであるとイメージするでしょうか。もっとも抽象的に言えば、この世で自分たちが生きている中で感じるあらゆる人間的苦しみが全くない世界ということになるでしょうか。キリスト教で言えば、エデンの園のような世界、それが極楽浄土であるというような。
宮沢さんはどのように感じていたのでしょうか。宮沢さんの心象イメージで言えば、さびしく苦しく悲しい、そして暗くしずんだ世界ではない、きれいで楽しく喜びがあり、そして明るくウキウキする世界というようなイメージではなかったかと推測します。
そのイメージは勝手に推測したのではなく、『春と修羅』で繰り返し表現されている心象風景なのです。例えば、「無声慟哭」には、トシさんが「《それでもからだくさぇがべ?》」と尋ねたのに対し、見守っていた母は、「《うんにゃ いっかう》」と返しています。
宮沢さんはと言えば、「ほんとうにそんなことはない/かへってここはなつののはらの/ちひさな白い花の匂(にほひ)でいっぱいだから」と心ではおもっていても、「ただわたくしはそれをいま言へないのだ」、なぜならば「《わたくしは修羅(しゆら)をあるいてゐるのだから》」と無言で見守るだけだったのです。
そして、「青森挽歌」において次のように叫びます。「こんなさびしい幻想から/わたくしははやく浮びあがらなければならない」とです。
そうした暗く沈んだ心情から、ときがたつにつれ、宮沢さんは徐々に、徐々に、回復していったのではないでしょうか。農学校での教師生活がその後押しをしたように思います。「花巻の農学校につとめて居りました四年のうち、終りの二年の手記から集めたもの」との序がある『春と修羅』第二集にある「国立公園候補地に関する意見」という作品があります。そこに、次のようなユーモアあふれた一節があります。
「死出の山路のほととぎす
六道の辻(つじ)
えんまの庁から胎内くぐり
それで罪障消滅(ざいしやうせうめつ)として
天国行きのにせ免状を売りつける
しまひはそこの三つ森山で
交響楽をやりますな
第一楽章 アレグロプリオははねるがごとく
第二楽章 アンダンテややうなるがごとく
第三楽章 なげくがごとく
第四楽章 死の気持ち
よくあるとほりはじめは大へんかなしく
それからだんだん歓喜になって」
また「嚝原淑女」という作品は楽しげです。ウキウキする気分が表現されています。
「嚝原(くわげん)の淑女よ
あなたがたはウクライナの
舞手のやうに見える
……風よたのしいおまえのことばを
もっとはっきり
この人たちにきこえるやうに云ってくれ……」
この作品では歩行旅で出会った二人の農婦の方を「ウクライナの舞手」に擬えている宮沢さんの明るい気持ちを反映しているように感じます。
さらに、「業の花びら」という作品の異稿には次のような宮沢さんの願いを表現した一節があります。
「ああ誰か来てわたくしに云へ/億の巨匠が並んで生れ/しかも互いに相犯さない/明るい世界はかならず来ると」
宮沢さんは本統に、本統に岩手県(イーハトーヴ)に明るい世界が来ることを夢見ていたんだなと感じます。
竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン