シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんが考える「本統の百姓」とは?

 「もう人は空を飛ぶし、地下も走る」(畑山博さん著『教師宮沢賢治のしごと』より)といういわゆる思考実験世界である四次元での主張ではなく、羅須地人協会で宮沢さんが実際どのような「しごと」をしたのだろうかという点から見れば、佐藤さんや鈴木さんの「仮象」や「真剣になろうとしてはいなかった」という批評は的を射たものなのでしょう。

 しかし、宮沢さんがめざそうとしていた「本統の百姓」とは、泥にまみれ、厳しい労働に耐えながら黙々と働きつづけるという意味での「百姓」だったのでしょうか。そのところを考えてみたいと思います。

 「本統の百姓」になると言ったとき、すでに自分は「百姓である」という自負心が宮沢さんにあったのではないでしょうか。宮沢さんにとって「百姓」とは、すべての富の源泉である自然に働きかけ、富を生産する者という意味だったとではないかと推測します。ただ宮沢さんの場合は、人間という自然に働きかけて、人間の精神的富を生産する者という意味での「百姓」だったのですが。

 岩波文庫の『ブッタのことば』に「田を耕す人」という一節があります。それは、「田を耕すバーラドヴァージャ姓のバラモン」とブッダさんの対話が内容となっている節です。バーラドヴァージャさんは人々に食物を配給しており、ブッタさんも配給を受けようと並んでいたとき、バーラドヴァージャさんに次のように言われます。

 「わたしは耕して種(たね)を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食」いなさいと。このことばに対して、ブッダさんは、自分も「田を耕す人」であると、次のように応じます。

 「わたしにとっては、信仰が種(たね)である。苦行が雨である。智慧がわが軛と鋤とである。慚(はじること)が鋤棒とである。心が縛る縄である。気を落ちつけることがわが鋤先と突棒とである。身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたくしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和がわたくしにとって[牛の]軛を離すことである」のですと。

 ブッダさんの言う「田を耕す人」という意味で、宮沢さんも自分はすでに「百姓」であると自認していたのではないかと推測します。それが、農学校を辞め、今度は、実際に農耕に従事するようになることで、自分は「本統の百姓」になると言ったのではないでしょうか。

 しかし、実際に農耕に従事すれば「本統の百姓」と言えるのでしょうか。宮沢さんはそのようには考えなかったものと思われます。宮沢さんが生きていた時代の「百姓」の姿は、分業の進展により農業労働、しかも苦役としての農業労働だけを行うものになっており、それは「本統の百姓」の姿ではないと考えていたのではないでしょうか。

 宮沢さんが考える「本統の百姓」に関しては羅須地人協会の設立宣言書でもある「農民芸術論」に謳われているものと思われます。「農民芸術論」執筆のための準備ノートと思われる「農民芸術の興隆」を参照して、宮沢さんの「本統の百姓」論を確認しておくことにしましょう。

 初めに宮沢さんは、「何故われわれの芸術がいま起らねばならないのか」を問うて、「曾ってわれわれの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた そこには芸術も宗教もあった」と考察しています。さらに、「蓋し原始人の労働はその形式及内容に於て全然遊戯と異らず」とノートしています。

 そうした「師父」たちや「原始人」の労働と比べると、「いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである」と言うのです。宮沢さんは本気で「田を耕す」労働は「遊戯」のように楽しいものでなければならない。「生存」のためだけの「ただ労働」するだけのものではなく、「芸術も宗教も」合わせて存在するような労働でなければならないと考えたのではないでしょうか。「本統の百姓」とは、文字通り百の姓をもつ存在でなければならないと考えたのではないでしょうか。

 ちなみに、宮沢さんに大きな影響を与えたトルストイさんやドフトエフスキーさんは、「田を耕す人」のことを百姓と表記しています。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン