シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんがめざしたこの世の極楽浄土像とは(1)

 前回述べたように、宮沢さんは、厳しい自然との闘いを教訓に、自分が理想とした極楽浄土建設としての地域づくりの現状とその中での自分の役割について、「もう一度反省し、見直すところから出発」しようとしたと考えられます。そして、その結果、実際に実行した活動が東北砕石工場のセールスマンとしての活動だったのです。なぜ自分の故郷である岩手県に極楽浄土を建設するための活動がセールスマンだったのでしょうか。ここに宮沢さんが極楽浄土建設のためにめざした地域社会づくりとはどのようなものであったかを考えていくためのヒントがあるように感じます。

 宮沢さんの極楽浄土建設とは、「すべての苦しむ衆生を救う」ためのこの世においてその衆生が暮らしている「生活空間」づくりとしての地域づくりだったのではないかと考えます。では、宮沢さんは、どのような「生活空間」が実現すればそれは極楽浄土となると考えていたのでしょうか。それをキーワードで示すとするならば、平和と平穏、明るく、楽しく、美しくではなかったかと思います。

 それらのキーワードを想起したキッカケは、石巻市博物館で開催されていた「学んで、旅して、たのしむ浮世絵」展を観覧したことです。この展覧会は、山形県天童市にある、歌川広重さんの浮世絵を収蔵し、公開している「広重美術館」が、その施設改修のため東北各地で移動開催している特別展の一つです。石巻博物館では、2023年9月2日から同年の10月29日まで開催していました。

 その浮世絵展を観覧しているとき、ふと以下のような浮世絵についての解説が目にとまったのです。それは、「浮世絵とは、江戸時代に誕生し発展した絵画で、当時の人々の暮らしや街並み、流行、文化などを描いたものである。中世には仏教の『浄土』に対して現世を『憂き世』といい、つらいことが多い苦しみに満ちた世の中を意味していた。それが江戸時代の平和な社会になると、『浮世』の造成語が生まれ、どうせ憂き世に生きるのなら楽しく浮かれて暮らそうと享楽的な意味に変わる」のですというものでした。

 この解説文を読んだとき、宮沢さんは、浮世絵の中に自分が考えている極楽浄土の風景を見ていたのではないかと感じたのです。すなわち、この解説文のなかの、「浮かれて」と「享楽的」という浮世絵に関する性格づけを除けば、宮沢さんが浮世絵からどのような仏国土建設のヒントを得ていたか、ある程度推測していくことができるように感じます。少なくとも、宮沢さんは、極楽浄土的なものとして、金銀財宝などのお宝のようなものではないものを考えていたように思います。

 この石巻博物館の浮世絵展をキッカケに宮沢さんの仏国土建設の夢と浮世絵の関係に興味をもちました。そこで、宮沢さんと浮世絵の関係について論じたものが何かないかを調べたところ、戦前のものですが、農民芸術社の『農民芸術』という雑誌に、それがあったのです。それは、中沢天眼(現代漢字に変えて記述しています。以下同じように記述していきます。)さんの「宮沢賢治と浮世絵」という論考があることが分かりました。

 早速この論考のコピーを入手し、読んでみたのです。その書き出しは、終戦の1945年に盛岡の光原社の及川四郎さんを訪問したときのエピソードです。周知のように光原社は、宮沢さんの『春と修羅』を出版した会社です。また、光原社は、明治期無価値化していた浮世絵の芸術的価値を認め、投げ捨てられ、海外に散逸してしまっている状況を憂いて、数千枚に及ぶ浮世絵を収集していた会社だったことが記されていました。また、それを自分の会社のお客さんに通信販売していたというのです。しかも、その通信販売の広告文を書いたのが、誰あろう宮沢さんだというのです。

 この中沢さんの論考を読んで、はじめて宮沢さんと光原社との間には、そうしたつながりがあったことを知りました。また、宮沢さんが書いたという浮世絵の通信販売のための広告文にも興味を持ちました。もしかしたら、宮沢さんの極楽浄土像がその浮世絵の広告文に反映されているのではないかと考えたからです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン